ビールが旨い季節になった。「赤羽」と聞くと、多くの人は「センベロ」「昼飲み」「安く酔える街」を思い浮かべるだろう。テレビもネットも「千円でベロベロ!」を面白がる。でもその飲み屋街は、なぜそこにあるのか。赤羽の足元を掘ってみたら、「安く飲める」どころではない、この街が飲む街になった構造的な理由が見えてきた。

明治以前の赤羽——中心は岩槻街道の宿場町だった

明治時代まで、赤羽はほとんど何もない土地だった。近隣の中心地は、岩槻街道の宿場町・岩淵宿(現・北区岩淵町)。江戸と東北を結ぶ街道の旅人が行き来するその宿場町に比べて、赤羽は荒川・新河岸川に近い低湿地帯に過ぎなかった。

転機は1885年(明治18年)3月1日。日本鉄道が品川線(現・山手線)の終点として赤羽駅を開業させた。東北本線と接続するこの駅が、東京と北関東を結ぶ交通の要衝に赤羽を変えた。1906年(明治39年)には鉄道国有法により国有化。鉄道の開通から20年足らずで、何もなかった低湿地帯は、軍と工業の街へと急変していく。

「軍都・赤羽」の誕生——北区面積の約1割が軍用地に

赤羽が「軍都」へと変貌するきっかけは、駅開業より13年前に遡る。1872年(明治5年)、兵部省武庫司が赤羽根村に火薬庫を設置した。これが北区域における最古の軍事施設とされる。

続いて1887年(明治20年)8〜9月、近衛師団工兵大隊と第一師団工兵第一大隊が丸の内一丁目から赤羽台四丁目へ移転。1891年(明治24年)には、陸軍被服廠の被服倉庫が赤羽停車場西側の高台に設置された。なぜ赤羽が選ばれたのか——荒川に近く広大な土地があったこと、鉄道の便がよかったこと、東京都心からほどよく離れた安全な距離を保てること。この三つが重なった。

軍事施設は次々と集積し、終戦時には北区全域面積の約1割が軍用地を占めていた。23区の中で最大規模の「軍都」である。その痕跡は今も街に刻まれている。赤羽台団地の地には陸軍被服本廠があった。桐ヶ丘団地の土地は、かつて陸軍赤羽火薬庫だった。赤羽自然観察公園の広大な敷地は、東京陸軍兵器補給廠の跡地だ。

そして赤羽緑道公園の遊歩道——足元に線路模様のタイルが続くあの道は、兵器補給廠へ資材を運んだ軍用貨物線の廃線跡である。歩道橋の柵には機関車の動輪を模したデザインが残る。赤羽の地面には、見えない線路が今も走っている。

工場と労働者と酒場——朝7時から飲む文化の構造的理由

軍都には工場が集まる。軍と取引する縫製工場、弾薬工場、金属加工工場が赤羽駅の東側に次々と立地した。その工場地帯の外縁に、商店街と住宅街が形成されていく。

こうして生まれた街には、特殊な生活リズムを持つ労働者が集まった。夜勤明けの工場労働者、早朝から荒川周辺を走るタクシーやトラックの運転手。彼らのために、朝7時から営業する酒場が必要だった。

正直なところ、筆者はこれを知るまで赤羽の朝飲みを「ちょっと変わった観光スポット」くらいに思っていた。でも実際には、夜明け前から体を使って働く人間が、交代の時間に一杯やるための、労働者のための救済装置として生まれたものだった。「安く飲む」のではなく、「当たり前の時間に当たり前の一杯を飲む」文化として。

赤羽の「朝飲み文化」の起源を知ってから改めてその風景を想像すると、まったく違う景色に見えてくる。早朝の薄暗いカウンターに並ぶ人たちは、観光客の物珍しさではなく、この街が百年かけて育てた生活の一部にいるのだ。

赤羽の商店街
赤羽一番街商店街。戦後の復興市から続く風景が今も残る

ヤミ市から一番街へ——戦後の復興が飲み屋街の礎をつくった

1945年、赤羽は空襲で大きな被害を受けた。駅前に焼け野原が広がる中、翌1946年(昭和21年)1月、18名の商人が「赤羽復興会商店街商業協同組合」を結成する。東京都第1号の認可を受けたこの組合が、現在の赤羽一番街商店街の原点だ。

当時の一番街は衣類や食品を売る商店街だった。1950〜60年代には「東京一の商店街」とも称され、東北への玄関口として多くの人が行き交う活気ある通りだった。今も一番街に残る青果店や呉服店は、その時代の名残である。飲み屋街に「囲まれた」ように見える一番街も、もとはまったく異なる顔を持っていた。

飲み屋街の真ん中に小学校がある理由

赤羽一番街に足を踏み入れると、飲み屋街の中に北区立赤羽小学校があることに気づく。なぜ小学校が飲み屋街の中に入り込んでいるのか、と思う人は多いだろう。

実は逆だ。小学校が飲み屋街に入り込んだのではなく、飲み屋街が小学校を取り囲んだのだ。

明治9年(1876年)開校の赤羽小学校は、明治35年(1902年)に現在地へ移転してきた。当時の周辺は田んぼだった。その後、赤羽駅の開業、軍施設の集積、工場の立地、戦後の復興市——という流れの中で、学校の周りに商店街と飲み屋が育っていった。小学校は動いていない。街が変わったのだ。

この「小学校と飲み屋街」という一見奇妙な組み合わせは、赤羽という街が辿ってきた百年の歴史を、一枚の絵として示している。

老舗が守ってきたもの——安さではなく、手仕事と人情

飲み屋街の中に、長く続く店がある。

1950年(昭和25年)創業の「まるます家」は、コイとウナギを主軸とした川魚料理の老舗だ。鯉の洗い、鯉こく、うな丼——荒川に近い赤羽ならではの川魚文化を今も守り続ける。朝11時から営業するこの店の先代のモットーは「高級な料理でも手軽な価格で」。安さが先ではなく、手仕事が先にあった。

1957年(昭和32年)創業の「丸健水産」は、かまぼこ・おでん種の製造販売業として始まった。2代目から立ち飲みのスタイルを加え、おでん種屋としての製造技術をそのまま一杯の値段に乗せた。安さの裏には、職人仕事がある。

こうした老舗が守ってきたのは「センベロ」という価格設定ではない。食材と仕事に対する敬意と、労働者の街に根ざした人情の文化だ。「安く飲める」は結果であって、目的ではなかった。

再開発で消えるかもしれない風景——京成立石の先例を知っているか

赤羽一丁目では、再開発計画が進んでいる。第一地区は2024年1月に東京都から市街地再開発組合の設立認可を取得済みだ(地上26階・高さ108m・約270戸)。旧第二・第三地区は合併して「中央地区」となり、それぞれの計画が動き出している。

京成立石のセンベロ街を覚えているだろうか。2023年から解体が始まり、2025年時点で駅北側の商店街はすでに姿を消している。地上34階のタワーマンションが建ちつつある。かつての「のんべえ文化」の風景は、再開発の波に呑まれていった。

赤羽が同じ道をたどるかどうかは、まだわからない。だが、その可能性が現実のものとして動いている今だからこそ、この街が「飲む街」になった理由を知っておきたい。風景が消えてから「あそこはこういう街だったのか」と知るのと、風景があるうちに知っておくのとでは、一杯の重みがまったく変わる。

赤羽で一杯やるとき、グラスを持ち上げたその場所が、かつて軍服を縫う工場だったかもしれないし、火薬を運ぶ貨物線の脇だったかもしれない。安く酔えるからいい街なのではない。この街が百年かけて積み上げてきた人と酒の歴史が、一杯の値段に詰まっているのだ。

KOTOHAREの視点:赤羽の飲み屋街は「センベロ最高」で語られすぎてきた。明治の軍都・工場労働者の朝飲み・戦後復興市という三層の歴史が積み重なって今の風景がある。老舗が守ってきたのは安さではなく手仕事と人情。再開発が進む今だからこそ、次の一杯を傾ける前に、足元の地層を知っておきたい。