久しぶりに入った店で、運ばれてきた一皿を口にして、思ったより静かな気持ちになる。
まずいわけではない。ちゃんとうまい。ただ、昔ここで食べたときのような、背筋がすっと伸びる感じがない。「あれ、こんな味だったか」。そう思ったことのある人は、たぶん少なくない。
正直に言うと、筆者にも覚えがある。家でずっと飯を作っていた時期を経て、久しぶりに外で食べたとき、感動の目盛りが以前より上がりにくくなっていた。うまいのに、驚けない。あれは、けっこう寂しい体験だった。
この話は、たいてい「舌が肥えた」で片づけられる。それはたぶん半分正しくて、半分は説明になっていない。何が起きたのかを、順に見ていきたい。先に言っておくと、外食がまずくなったという話にはならない。
外食に感動しないのは、舌が変わったからかもしれない
最初に疑うべきは、皿の側ではなく自分の側だ。
味覚は、思っているよりよく動く。減塩の分野では、うす味は1週間から10日ほどで慣れるといわれる。少しずつ塩を減らし、その味に慣れたらまた減らす。そうやって基準そのものを引き下げていく方法が、実際に勧められている。
逆向きにも同じことが起きる。濃い味に長く触れていると、塩味を感じ取る力のほうが鈍っていき、同じ量では物足りなくなる。舌には固定された正解があるわけではなく、直近の食生活に合わせて基準点が動く。そう考えると、しっくりくる。
自炊が続いた時期を思い出してほしい。あれは毎日、自分の適量に向けて味を微調整し続ける作業だった。塩をひとつまみ減らし、出汁を一度濃くとってみて、翌日はまた戻す。数か月それを続ければ、基準点は静かに動く。
一方、店の一皿は、初めて来た人にもはっきり届く強さで設計されている。誰が食べても輪郭がわかることを目指した味だ。手を抜いているという話ではまったくない。むしろ、狙いが違う。
その二つがすれ違ったのが、「あれ、こんな味だったか」の正体ではないか。皿は変わっていない。物差しのほうが動いた。
自炊が強くなった時代と、外食の値段の中身
ただ、舌の話だけでは足りない。この数年で、家の台所そのものが強くなった。
レシピ動画が、家庭の平均点を底上げした
数字を見ると、変化の大きさがわかる。ある調査では、コロナ禍以降に自炊が「増えた」と答えた人が56.3%。30歳以下では64.3%にのぼった。しかも一時的な話で終わらず、自粛期間に増えた手作り料理について、約8割が続けたいと答えている。
同時に、参照先も変わった。レシピを調べるときに使うサービスの利用率で1位に立ったのはYouTubeで、伸び率ではInstagramやTikTokが目立つ。文字と写真ではなく、手つきと音で覚える時代になった。
ここが大きいと思う。かつて料理人の手の内は、店に通うか、弟子入りするか、本を読み込むかしないと見えなかった。それがいま、火加減も、鍋を振る角度も、調味料を入れる順番も、無料で何度でも見返せる。料理研究家たちが自分の技術を惜しみなく公開したことで、家庭のレシピの平均点は明らかに底上げされた。
つまり、あなたの舌が変わっただけではない。あなたの作る飯が、実際にうまくなっている。感動しなくなったのではなく、比較対象が家の中に出現した、というほうが近い。
外食が高いのではなく、買っているものが違う
もう一つ、値段の話も避けて通れない。
外食の価格は上がり続けている。ある調査では、2026年度に値上げを予定する外食企業は6割にのぼった。理由として挙がるのは、包装・資材が51.5%、物流費が36.1%、人件費が34.4%。円相場が1ドル150円前後で推移すれば、輸入する原材料も運ぶ費用も押し上げられる。
ここで大事なのは、この数字が食材だけの話ではないという点だ。外食の一皿には、家賃も、光熱費も、そこで働く人の時給も、洗い物をして皿を戻す手間も入っている。家で作れば材料費だけで済むのは当たり前で、比べているのは同じ商品ではない。
スーパーで買った肉と、店で出てくる一皿を並べて「割高だ」と感じるとき、私たちは料理と料理を比べているつもりで、じつは材料と、店という装置ごとの値段を比べている。この二つは、そもそも別の買い物だ。
自炊と外食は、同じ土俵に乗る商品ではなくなった。片方は日々の基準を作る場所で、もう片方は、家では手が届かないものを買いに行く場所だ。
では、外食は何のために行くのか
ここからは明るい話をしたい。家の台所が強くなったぶん、外食の役割はむしろはっきりしてきた。
家庭のコンロでは、どうしても出せない火力がある。中華鍋の底が真っ赤になるあの熱量は、家の設備の設計思想の外側にある。炭火もそうだ。表面だけを一気に焼き固めて中の水分を閉じ込める芸当は、家庭用の器具では距離が遠い。
時間もそうだ。朝から寸胴で骨を炊き続けたスープ、何日も寝かせた出汁、季節ごとに仕込みを変える漬物。どれも工程が難しいというより、家庭の一日の中に置き場所がない。冷蔵庫の容量と生活動線が、先に音を上げる。
そして反復がある。同じ一皿を何万回と作り続けた手が出す精度は、月に一度作る自分の手では届かない。レシピ動画で工程を知ることと、その工程を年単位で繰り返した体を持つことは、別のものだ。
さらに、皿の外側にも買えないものがある。カウンター越しの短い会話、常連が交わす目配せ、店に流れている時間そのもの。100年続く店の話を書いたときにも思ったが、長く続く店が出しているのは料理だけではない。そこで積み上がった年月ごと出てくる。あれは、どんなに腕を上げても家では再現できない。
味の再現だけなら、家でかなりのところまで行けるようになった。だからこそ、外食の価値は「家で買えないもの」のほうへ移った。損をしたのではなく、役割が分かれただけだ。
点数をつけに行くのを、いったんやめる
ここまで書いておいて何だが、筆者はチェーン店も普通に好きだ。深夜の牛丼にも、休日のファミレスにも、あの場所にしかない良さがある。外食を語るときに、値段や原価の話から入る癖がつくと、たぶんいちばん損をするのは自分の舌だ。
提案はひとつだけ。次に外へ食べに行くとき、味の点数をつけに行くのをやめてみてほしい。かわりに、家では作れない一皿を、一つだけ選ぶ。強い火が入ったもの、何時間も仕込んだもの、その店が何十年も出し続けているもの。基準はそれだけでいい。
選び方が分からなければ、自分が何を好きなのかを言葉にするところから始めてもいい。日本酒の好みを言葉にするのと同じで、好みには座標がある。座標が決まると、選ぶ一皿の精度は上がる。
感動しなくなったのではない。感動する場所が、少しだけ移っただけだ。舌が動いたなら、行き先のほうを動かせばいい。
次の一皿は、家で作れないものにしよう。