「どんな日本酒が好き?」で、固まった夜
少し前、行きつけの居酒屋で、隣に座った年上の常連さんに聞かれた。「で、君はどんな日本酒が好きなの?」。正直に言うと、筆者はそこで完全に固まった。日本酒は好きだ。冷やでも燗でも、出されればうれしい。なのに、好みを聞かれた瞬間、何も出てこなかった。
やっとの思いで口から出たのは「えっと……辛口、ですかね」という、我ながら中身のない一言だった。相手は「まあ、みんなそう言うんだよ」と笑って、話はそのまま流れた。悪くない夜だったのに、その一言の頼りなさだけが、帰り道でずっと引っかかっていた。
たぶん、これを読んでいるあなたにも、似た経験があるのではないだろうか。日本酒は好きなのに、いざ「どんなの?」と聞かれると、言葉が出てこない。ワインなら「赤の重ためが好き」くらいは言えるのに、日本酒になると急に口ごもる。この、地味だけれど確かな居心地の悪さの正体を、今日は一緒にほどいてみたい。
好みが分からないのは、知識ではなく「座標軸」がないだけ
まず、はっきりさせておきたいことがある。好みを言葉にできないのは、あなたの知識が足りないからではない。銘柄をたくさん覚えていないからでもない。ただ、味を置くための「座標軸」を持っていないだけだ。
地図のない土地で「どこが好き?」と聞かれても、答えようがない。東西南北の線が引かれて、はじめて「駅の北側が落ち着く」と言える。日本酒も同じで、味を置くための縦軸と横軸さえあれば、自分の好みは急に言葉になる。
好みが言えないのは、知識が足りないからではない。味を置くための座標軸を、まだ手にしていないだけだ。
ありがたいことに、その地図はすでに用意されている。プロが長い時間をかけて作ってくれた、よくできた座標軸がある。
日本酒のタイプは4つ——薫酒・爽酒・醇酒・熟酒という地図
日本酒には「4タイプ分類」という考え方がある。唎酒師(ききさけし)の認定などを行う日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会、通称SSIが、1990年代前半に提唱したものだ。二万種以上をテイスティングして傾向を探り、香りの高さと味わいの濃さ、この二つの軸で日本酒を大きく四つに整理した。
薫酒(くんしゅ)は、香りが高くて味わいは軽やかなタイプ。りんごや洋梨、花のようなフルーティーな香りが立つ。吟醸酒や大吟醸に多い。爽酒(そうしゅ)は、香りはおだやかで、味わいも軽快ですっきり。いわゆる「淡麗」と表現される、飲み飽きしにくい酒だ。
醇酒(じゅんしゅ)は、米の旨味やコクがしっかり感じられるタイプ。純米酒に多く、常温やお燗にすると旨味がふくらむとされる。熟酒(じゅくしゅ)は、長期熟成による黄金色や褐色の見た目と、干した果実やスパイスのような複雑な香りを持つ、いちばん個性の際立つ一群である。
難しく覚える必要はまったくない。「香りが高いか、おだやかか」「味が軽いか、濃いか」。この二本の線を頭の隅に引くだけで、居酒屋のメニューの見え方が変わる。正直に白状すると、筆者はこの四つを知っただけで、酒屋の棚の前に立つ時間が倍に増えた。もちろん、楽しいほうの倍増である。
甘口/辛口、淡麗/濃醇——もう一つの物差し
4タイプと並んで、居酒屋でよく飛び交う物差しがもう二つある。「甘口か、辛口か」と「淡麗か、濃醇か」だ。
甘口・辛口は、ざっくり言えば甘さの感じ方の違い。ラベルにときどき「日本酒度+5」といった数字が書いてあるが、これは甘辛のおおよその目安で、プラスに大きいほど辛口寄り、マイナスなら甘口寄り、くらいに思っておけば十分だ。数字に振り回される必要はない。
淡麗・濃醇は、味の濃さの軸である。淡麗は水のようにすっと消える軽やかさ、濃醇は口の中に旨味が長く残る厚み。あの夜の「辛口ですかね」という迷答は、じつはこの言葉だけを、意味もよく分からないまま握りしめていたのだと、今なら分かる。中身がなくて当然だったのだ。
「淡麗辛口は飲んだ。でも、心に残ったのは」——自己診断のやり方
では、実際に自分の座標を探してみよう。ここは、架空の一人を思い浮かべると分かりやすい。
たとえば、こういう人がいる。新潟の淡麗辛口を、定番と言われる銘柄はひととおり飲んできた。すっきりしていて、料理の邪魔をしない。悪いはずがない。なのに、後になって「また飲みたい」とふと思い出すのは、いつも旅先でたまたま頼んだ、香りが華やかで、口の中で旨味がふくらんでいく一杯のほうだった——。
少し背景を足しておきたい。淡麗辛口が「日本酒の主流」とされたのは1980〜90年代のことだ。新潟の越乃寒梅に代表される、澄んだ味わいが一世を風靡した。その流れに新しい風を入れたのが、1994年に登場した山形の十四代だとされる。華やかな香りと旨味を両立させた「芳醇旨口」は、その後のフルーティーな酒の潮流の起点になったと言われている。どちらも、日本酒の立派な地図の一部だ。
だからさっきの人の話も、淡麗辛口がダメだった、という話ではまったくない。ただ、その人の好みの座標が、すっきりした爽酒よりも、香りの薫酒や旨味の醇酒のほうに寄っていた、というだけのこと。好みに優劣はない。座標が違うだけである。
自己診断のコツは、「本当に好きだった酒」と「ただ飲んだ酒」を、記憶のなかで並べてみることだ。飲み会で流れていった酒ではなく、「あれ、うまかったな」と後から思い出す酒。それを二つ三つ挙げて眺めると、香りが高めだったな、とか、どうやら濃いめが好きらしい、といった偏りが、必ず浮かんでくる。その偏りこそが、あなたの座標だ。
筆者もこれをやってみて、自分が思っていたより断然「旨味の濃いほう」が好きだと気づいた。長いこと「辛口です」と言い続けてきた自分に、ちょっと謝りたい気分である。
明日、酒屋で言える一言
座標がひとつ見つかれば、もう「固まる」ことはない。酒屋や居酒屋で、こう言えばいいだけだ。「◯◯みたいな、香りがあって旨味ののった酒が好きなんです」。◯◯には、さっき思い出した「あの一杯」の銘柄を入れる。覚えている名前は、たった一本でいい。
一本の名前を軸に伝えれば、店の人は驚くほど的確に次の一本を出してくれる。「じゃあ、これ好きかも」と。そこから会話が始まって、少しずつ世界が広がる。好みとは、最初から完成しているものではなく、こうやって一本ずつ育てていくものなのだと思う。
もし日本酒の背景をもう少し知りたくなったら、蔵元がこの30年で半分に減った話も、どこかで読んでみてほしい。一本を選ぶという行為の意味が、少しだけ変わって見えるはずだ。そもそも自分の好みがまるで見えない、という人は、肩の力を抜いて食の物語診断から入ってみるのもいい。
今夜、仕事帰りに酒屋へ寄ってみるのはどうだろう。棚の前で、「香りか、旨味か」と小さくつぶやきながら一本を選ぶ。その一本が当たりでも、少し外れでも、それはもう立派な、あなたの座標の記録だ。次に「どんな日本酒が好き?」と聞かれたときには、きっと、固まらずに済む。