飲み会の最初の一杯。「とりあえずビール」と言うとき、日本酒という選択肢が頭に浮かぶ人は、どれくらいいるだろう。たぶん、そんなに多くはない。

「日本酒」と聞いて思い浮かぶのは、お正月のお屠蘇、おじいちゃんが飲んでいた熱燗、あるいは二日酔いの苦い記憶——そんなイメージを持つ人が、とくに若い世代には少なくないはずだ。なんとなく「古い飲み物」「おじさんの飲み物」という空気が、日本酒にはまとわりついている。

でも、その空気の裏側で、静かに起きていることがある。日本各地で何百年も酒を造り続けてきた蔵元が、ひとつ、またひとつと暖簾を下ろしている。この30年で、日本酒の蔵元は約半分にまで減った。

蔵がひとつ消えるということは、単に会社がひとつなくなるという話ではない。その土地の水を使い、その土地の米で、その蔵にしかいない微生物と、何代にもわたって受け継がれてきた技で醸されてきた酒——その味が、永遠にこの世から消えるということだ。同じ味は、もう二度と造れない。

「日本酒はおじさんの飲み物」——その壁の正体

若い世代にとって、日本酒は「よくわからない飲み物」になっている。居酒屋のメニューには「日本酒」とだけ書いてあって、どれを選べばいいかわからない。ワインならなんとなくシャルドネとかピノ・ノワールとか聞いたことがあるのに、日本酒の品種名や銘柄は、ほとんどの人にとって未知の世界だ。

しかも、初めて飲んだ日本酒が安い紙パックの酒だった、という人は多い。あの強烈なアルコール感と、ツンとくる匂い。あれで「日本酒は苦手」と思い込んでしまった人が、どれだけいるだろう。それはまるで、インスタントコーヒーしか飲んだことがない人が「コーヒーは苦くて嫌い」と言っているようなものだ。

ワインにはソムリエがいて、クラフトビールにはおしゃれなタップルームがある。でも日本酒には、そういう「入口」が圧倒的に少ない。「日本酒離れ」という言葉をよく耳にするけれど、正確に言えば、離れたのではない。そもそも出会っていないだけなのかもしれない。

出会う前に、蔵が消えてしまう。それが今、静かに起きていることだ。

酒蔵の風景
何百年もの歴史を持つ酒蔵。その空間そのものが、日本酒の味を生み出している

米と水と麹と酵母。たった4つで無限の味を生む奇跡

日本酒の原料は、驚くほどシンプルだ。米、水、麹、酵母。たったこの4つしかない。ワインのようにブドウの品種で味が決まるわけでもなく、ビールのようにホップやスパイスを加えるわけでもない。たった4つの素材だけで、甘い酒も辛い酒も、フルーティーな酒も、どっしりした酒も造り出す。

その秘密は、「並行複発酵」という世界でも類を見ない醸造技術にある。通常、酒を造るには「糖化」と「アルコール発酵」という2つのプロセスが必要で、ワインやビールではこれを順番に行う。でも日本酒は、この2つを同時に、ひとつのタンクの中で進行させる。これがどれだけ難しいことか——世界の醸造家が驚嘆するほどの技術だ。

同じ米を使っていても、精米歩合を変えるだけで全く別の酒になる。米の外側を削れば削るほど雑味が消え、繊細でクリアな味わいになる。大吟醸と呼ばれる酒は、米粒を半分以下にまで磨き上げる。残った小さな米の核から、あの華やかな香りと澄んだ味が生まれるのだ。

そして何より面白いのが、蔵に住み着く微生物の存在だ。酒蔵の壁や梁には、何十年、何百年もかけてその蔵だけの微生物が棲みついている。同じレシピ、同じ米、同じ水を使っても、蔵が違えば味が違う。蔵そのものが「調味料」なのだ。だから蔵がひとつ消えるということは、その微生物ごと、二度と再現できない味が消えるということを意味する。

杜氏と呼ばれる醸造責任者は、温度や湿度を肌で感じ、麹の色や香りを目と鼻で判断し、もろみの音を耳で聴く。数値化できない「手の記憶」で酒を造る。その技もまた、蔵と一緒に消えていく。

日本酒を「知る」だけで、飲み方が根本から変わる

「純米」「吟醸」「大吟醸」——日本酒のラベルに書いてあるこの言葉の意味を知っているだろうか。実はこの違いを理解するだけで、日本酒の選び方は劇的に変わる。純米酒は米の旨みがしっかりしていて、吟醸酒は華やかな香りが特徴で、大吟醸はさらに繊細で透明感がある。たったこれだけの知識で、居酒屋のメニューの見え方がまるで違ってくる。

温度で味が変わるのも、日本酒の面白さだ。同じ一本の酒が、冷やで飲めばシャープで爽やか、ぬる燗にすれば丸くてふくよか、熱燗にすればどっしりと力強くなる。ワインにも適温はあるけれど、ここまで劇的に七変化する酒は日本酒くらいだろう。一本で何通りもの楽しみ方ができる。こんなコスパの良い酒は、世界中を探してもなかなかない。

料理とのペアリングも、実はワインに匹敵する——いや、それ以上かもしれない。刺身に合うのは当然として、チーズに合う日本酒、チョコレートに合う日本酒、カレーに合う日本酒だってある。日本酒は「和食に合わせるもの」という思い込みを捨てた瞬間、その可能性は一気に広がる。

最近は、若い世代の蔵元が面白いことを始めている。ワインボトルのようなスタイリッシュなデザイン、ジャケ買いしたくなるようなアートなラベル、SNS映えする日本酒カクテル。「古い」「ダサい」という壁を、彼ら自身の手でぶち壊しにかかっている。

海外に目を向ければ、「SAKE」としての評価は急上昇中だ。パリやニューヨークの高級レストランで日本酒がオンリストされ、海外の醸造家が日本で酒造りを学びに来る。日本国内では「おじさんの飲み物」扱いされている間に、世界は日本酒の凄さに気づき始めている。

日本酒は「知らない」から飲まない。「知る」だけで世界が変わる。ラベルの意味がわかれば選べるようになるし、温度を変えれば別の表情に出会える。日本酒は、知識が味を変える稀有な飲み物だ。

地元の酒蔵を訪ねてみよう。推しの一本がきっと見つかる

日本酒の蔵元を守る方法は、実はとてもシンプルだ。飲むこと、知ること、そして選ぶこと。スーパーで適当に手に取るのではなく、「この蔵の酒を飲んでみよう」と意志を持って選ぶ。それだけで、その蔵が存続できる理由がひとつ増える。

もし地元に酒蔵があるなら、一度訪ねてみてほしい。蔵の中に足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気の中に漂う麹の甘い香りに包まれる。薄暗い蔵の中で、タンクの中の酒が静かに息をしている。造り手の顔を見て、その人がどんな思いで酒を造っているかを聞けば、その一杯の意味は確実に変わる。

「推しの日本酒」を持つ楽しさは、推しのアーティストを見つける楽しさに似ている。マイナーな銘柄を見つけて、「これ知ってる? めちゃくちゃ美味しいんだよ」と誰かに薦める喜び。そのうち蔵元のSNSをフォローして、新酒が出たら真っ先に買いに行く。そういう関係が、ひとつの蔵を支える力になる。

次の飲み会で、「とりあえずビール」の代わりに「まず日本酒で」と言ってみてほしい。周りがちょっと驚くかもしれない。でもその一言が、あなたと日本酒の新しい出会いの始まりになる。そしてその一杯が、どこかの蔵元を「もう少し続けてみよう」と思わせる力になるかもしれない。

KOTOHAREの視点:日本酒は「古い飲み物」じゃない。何百年もの知恵と、その土地の水と空気が詰まった「文化の一杯」だ。蔵元が減るということは、日本の風景が消えるということ。まずは一杯、知ることから始めよう。