コンビニの棚に、180年分の酒造りがある

コンビニの冷蔵ケースを開ける。ビールの隣に、チューハイが並ぶ。果汁入り、ゼロカロリー、ストロング系——色とりどりのデザインの中に、地味なくらいシンプルな缶がある。白地に赤い文字で「宝焼酎ハイボール」とだけ書かれた、あの缶だ。

値段は安い。特に何かを考えることもなく、レジに持っていく。電車の中で、公園のベンチで、あるいは一人の夜の台所で、プシュッとプルタブを引く。炭酸がはじける。喉を通る、あのシュワシュワとした感覚。

何気なく飲んでいるその一缶に、180年の酒造りの歴史が詰まっている——と聞いたら、少し驚くだろうか。

宝酒造株式会社。そのルーツは1842年(天保13年)、四方(しかた)家が京都・伏見で酒造りを始めたことに遡る。1925年(大正14年)には前身の「四方合名会社」を株式会社化し、「寳酒造株式会社」が設立された。株式会社設立から101年目の今も、「宝焼酎ハイボール」の缶はその長い歴史の産物として、昭和の下町文化を現代に届け続けている。一缶を開けるたびに、私たちは気づかぬまま、日本の食の歴史に触れているのだ。

百年企業は、日本に約3万3000社あるといわれる。世界でも突出して多い。その中に、宝酒造は名を連ねる。酒と食の文化に寄り添い続けてきたその歴史は、激動の日本近代史そのものだ。

焼酎は「貧しい人の酒」だったのか

日本の酒の世界には、長い間、見えないヒエラルキーがあった。

頂点に立つのは日本酒。吟醸、純米、大吟醸——米と水から生まれる繊細な発酵の芸術は、伝統文化の象徴として語られてきた。その下にビール、ウイスキー。そして焼酎は、どちらかといえば「庶民の酒」「安酒」として、長く低い地位に甘んじてきた。

なぜか。理由は、歴史にある。

明治時代、日本の酒税体系が整備された時、焼酎は日本酒よりもはるかに安い税率で課税された。原料も米だけでなく、芋、麦、粟、とうもろこしなど、安価な農産物を使えた。製造コストが低く、庶民の手に届く酒として普及したのは自然な流れだった。「甲類焼酎」と呼ばれる連続式蒸留の焼酎は特に安価で、戦後の食糧難の時代、日本中の大衆食堂と立ち飲み屋を支えた。

だが、この「安さ」は「粗悪さ」を意味しない。むしろ、安く、誰でも飲める酒であったからこそ、焼酎は日本の庶民文化の中核を担った。工場労働者も、農家も、商店主も、みんな焼酎を飲んだ。その飲み方が、やがて「焼酎ハイボール」という独自の文化を生み出すことになる。

焼酎に「度数が高くて飲みにくい」という声があったのも確かだ。そこで生まれた知恵が、炭酸水で割るという方法だった。薄めて飲みやすくする、というより、炭酸のシュワシュワが焼酎の風味を引き立てる、という気づきが、一つの文化を生んだ。炭酸で割った焼酎は、不思議と喉越しが良く、食事との相性も抜群だった。下町の台所が生んだ、庶民の知恵の結晶だ。

宝酒造1925年——伏見の水が生んだ百年企業

京都・伏見といえば、日本有数の酒どころだ。

地下深くに眠る花崗岩層が育む「伏流水」は、軟水でまろやか。この水がなければ、伏見の酒は存在しない。月桂冠、黄桜、そして宝酒造——名だたる酒造メーカーが伏見に根を張るのは、この良質な水があるからだ。千年の都・京都が育んだ食文化と、伏見の清らかな水。その組み合わせが、宝酒造の原点にある。

1842年(天保13年)、四方(しかた)家が京都・伏見で酒造りを始めた——これが宝酒造のルーツだ。その後、1925年(大正14年)に前身の「四方合名会社」を株式会社化し、「寳酒造株式会社」として新たな一歩を踏み出す。当初から伏見の良質な水と京都の食文化に育まれ、清酒の製造から始まり、次第に焼酎、みりんへと製品を広げていく。特に「宝焼酎」は昭和の高度成長期に全国で親しまれる定番商品となり、会社の名を全国区に押し上げた。

宝酒造が他のメーカーと一線を画したのは、「食文化と共に歩む」という姿勢だった。みりんは料理に欠かせない調味料であり、焼酎は食事の友。お酒を「飲む場面」だけでなく、「食卓全体」との関係で捉える視点が、この会社を支えてきた。酒と料理は不可分であるという、京都の食文化が育んだ哲学だ。

100年という時間は、企業にとって試練の連続だ。戦争、占領、高度成長、バブル崩壊、少子高齢化——日本社会が揺れるたびに、酒類市場も変わった。ビールが台頭し、ウイスキーが流行し、ワインが食卓に上がった。そのたびに、焼酎は「古い」「地味」と言われてきた。だが宝酒造は焼酎を手放さなかった。むしろ、その歴史と伝統を武器に、新しい形で焼酎を届け続けた。その執念が、やがて「焼酎ハイボール缶」という革命を生み出す。

タカラ「焼酎ハイボール」——2006年(平成18年)に誕生した、白地に赤文字のシンプルな缶
タカラ「焼酎ハイボール」——2006年(平成18年)に誕生した、白地に赤文字のシンプルな缶

下町の立ち飲みで生まれた、焼酎ハイボールの原点

東京の下町——浅草、向島、亀戸、錦糸町。戦後の焼け跡から復興したこの地域に、独自の飲み文化がある。

「立ち飲み」だ。

椅子も、テーブルも、豪華なつまみも要らない。カウンターに立ち、仲間とグラスを傾ける。会話は短く、酒は早く。仕事を終えた工場の男たちが、一杯ひっかけて家に帰る。その一杯に、焼酎ハイボールがあった。炭酸水で割った焼酎に、少量の果汁や梅エキスを加えることもあった。冷たくてシュワシュワで、適度にアルコールが入っていて、値段が安い。二杯飲んでも、財布が痛まない。

「酎ハイ」という名前で呼ばれるようになったこの飲み物は、下町の労働者文化と切り離せない。浅草のホッピー通りは、この文化の象徴だ。ノーアルコールのビール風飲料「ホッピー」を焼酎で割る飲み方が50年以上続く聖地。観光客が訪れる今も、立ち飲みの文化は生き続けている。縁台や木のカウンターで、常連のおじさんたちが昔と変わらない飲み方をしている光景は、昭和そのものだ。

この文化の本質は「手軽さ」と「人との距離感」にある。立ったまま飲むことで、隣の知らない人と自然に会話が生まれる。高級バーのように身構えなくていい。居酒屋のように長居する必要もない。一杯飲んで、軽く話して、帰る。その潔さが、下町の焼酎ハイボール文化の魅力だった。

立ち飲み屋のカウンターで、おじさんが焼酎を炭酸で割る。その手つきは、長年の習慣が生んだ所作だ。分量を量るでもなく、考えるでもなく、体が覚えた動き。それが毎晩繰り返されてきた——その積み重ねの上に、焼酎ハイボールの文化は存在する。

缶に詰められた文化——1984年・2006年、二つの革命

宝酒造の缶チューハイの歴史は、二つの重要な節目によって刻まれる。

まず1984年(昭和59年)。宝酒造は「タカラcanチューハイ」を発売した。これが日本で初めての缶入りチューハイ、RTD(Ready To Drink)チューハイ市場のパイオニアだ。当時、缶でお酒を飲むということ自体が、まだ新しい文化だった。ビールの缶は普及していたが、チューハイの缶は未知の領域。下町の立ち飲みで生まれた焼酎ハイボールを、「缶」という形で全国に届けようとする試みは、当時としては革新的な発想だった。

なぜ缶だったのか。理由は明快だ。場所を選ばず、気軽に飲める。グラスも、炭酸水も、焼酎のボトルも要らない。コンビニで買って、公園でも、電車でも、家でも。缶に詰めることで、焼酎ハイボールは「下町の飲み物」から「日本全国の飲み物」になった。

宝酒造が踏み出したその一歩が、その後の日本の「缶チューハイ文化」の礎になった。今では数十種類のフレーバーが存在する缶チューハイ市場も、その原点をたどれば、1984年の「タカラcanチューハイ」に行き着く。日本のRTD市場は今や年間数億ケース規模。その巨大な市場の源流に、宝酒造の決断があった。

そして二つ目の節目が、2006年(平成18年)だ。この記事の冒頭で描いた「白地に赤い文字で『宝焼酎ハイボール』とだけ書かれた、あの缶」が誕生したのがこの年だ。「タカラcanチューハイ」発売から20年余りが経ち、缶チューハイ市場が多彩なフレーバーで溢れる中、宝酒造はあえてシンプルを選んだ。果汁系の甘さで誤魔化さず、焼酎と炭酸だけの「正直な一杯」をストレートに届ける——そのコンセプトが、あの白地に赤文字という飾り気のないデザインに凝縮されている。

ただ、缶化は便利さをもたらした一方で、失われたものもある。立ち飲みで、自分の手で焼酎を注ぎ、炭酸を加え、氷を入れる。この「作る行為」には、一つの儀式としての意味があった。飲む前の準備が、飲む場の雰囲気を作り出す。缶を開けるだけでは再現できない、あの感覚。下町の立ち飲み文化を守る人たちが、今もグラスで焼酎ハイボールを作り続けるのは、その「手作りの感覚」を大切にしているからだ。缶と、立ち飲みのグラス。どちらも「焼酎ハイボール」だが、体験としては全く別物だ。両方が共存していることが、この文化の豊かさを示している。

宝焼酎ハイボールを「知って」飲む、小さな豊かさ

次にコンビニで「宝焼酎ハイボール」の缶を手に取るとき、少しだけ想像してほしい。

1842年、京都・伏見で四方家が始めた酒造りから180年余り。会社として設立されてからも100年以上の歴史を持つ宝酒造が、作り続けてきた味。戦後の物資不足の時代に、焼酎と炭酸を混ぜて「なんとか飲みやすくしよう」と知恵を絞った、下町の男たちの創意工夫。浅草の立ち飲み屋で、工場帰りの親父がグラスを傾けていた、昭和の夕暮れの空気。その全部が、一缶に入っている——と思って飲むと、少し味が変わるかもしれない。

宝焼酎ハイボールのシンプルなデザインには理由がある。余計な装飾をしない。フルーツ系の甘さで誤魔化さない。焼酎と炭酸、という「正直な一杯」を、そのまま届ける。この「シンプルで正直な」姿勢は、100年変わっていない宝酒造の哲学だ。流行に振り回されず、大切なものを守り続ける——それは、百年企業だけが持てる強さだ。

機会があれば、ぜひ下町の立ち飲みにも足を運んでほしい。東京の下町——浅草や東向島、亀戸のあたりを歩けば、今もグラスで焼酎ハイボールを提供する店がある。カウンターに立ち、となりの知らないおじさんと、短い言葉を交わしながら一杯飲む。その体験は、缶チューハイとは全く違う豊かさを持っている。昭和が生きている、その空気を感じてほしい。

焼酎ハイボールは、日本の庶民文化が生んだ知恵だ。高価でも、希少でもない。でも、その歴史を知ったとき、「当たり前の一杯」が「特別な一杯」になる。コンビニの冷蔵ケースの中に、100年分の物語が眠っている。それを知って飲む人が増えれば、日本の食文化はもう少し豊かになるはずだ。

KOTOHAREの視点:1842年に酒造りを始め、1925年に設立した宝酒造が届け続ける「焼酎ハイボール」は、戦後の下町立ち飲み文化を缶に詰めた一本だ。炭酸で焼酎を割って飲みやすくした庶民の知恵が、1984年の「タカラcanチューハイ」誕生で日本初の缶チューハイとなり、RTD市場を開拓。2006年には白地に赤文字のシンプルなあの缶が生まれた。コンビニで何気なく手に取る一缶に、180年分の酒造りの歴史と下町の魂が宿っている。知って飲めば、いつもの一杯が少しだけ豊かになる。