味噌を「買うもの」だと思っていた
味噌は「買うもの」だ。ほとんどの日本人はそう思っている。スーパーの棚からパック入りの味噌を選び、冷蔵庫に入れ、毎朝の味噌汁に使う。それが当たり前だ。特売日にまとめ買いして、なくなったらまた買う。味噌の「買い方」は何十年も変わっていない。
ところが今、味噌を「自分で作る」人が静かに増えている。
SNSでは「#手前味噌」のハッシュタグで手作り味噌の写真が並ぶ。仕込んだばかりの白い味噌、半年後に蓋を開けた瞬間の感動、自家製味噌で作った味噌汁の一杯。味噌蔵が主催する味噌作りワークショップは予約が取りにくくなっている。ホームセンターや通販では「手作り味噌キット」が売れている。マルコメやひかり味噌といった大手メーカーも手作り味噌セットを販売している。
なぜ今、味噌なのか。パン作りや梅干し作りのブームとも重なるが、味噌には独特の「引力」がある。パンは毎日こねて焼かなければならないが、味噌は一度仕込んだら放っておけばいい。梅干しは梅雨の時期にしか作れないが、味噌は一年中仕込める(ただし冬の「寒仕込み」が最適とされる)。手間がかからないのに、できあがるまでに半年かかる。その「待つ楽しみ」が、忙しい現代人の心を掴んでいるのかもしれない。
考えてみれば不思議な話だ。味噌の原材料は、大豆、米(または麦)、塩、水。たったこれだけ。何百年も前の日本人は、これを家庭で当たり前に作っていた。「手前味噌」という言葉があるように、自分の家で仕込んだ味噌を自慢する文化があった。いつの間にか、その文化は途絶えた。味噌は工場で大量生産され、スーパーで買う「商品」になった。
だが今、その流れが少しだけ逆転し始めている。便利さを捨てて、わざわざ手間をかけて味噌を作る人がいる。なぜか。その理由を探ると、現代人が「食」に対して感じている、ある種の飢えが見えてくる。
「面倒くさそう」「失敗しそう」——手作り味噌のハードルは、実は幻想だった
味噌を手作りすると聞くと、たいていの人はこう思う。「面倒くさそう」「難しそう」「失敗したらどうしよう」。発酵食品だから温度管理が必要なんだろう、特殊な器具がいるんだろう、カビが生えたら全部ダメになるんだろう——そんなイメージが先行する。
実際にやってみた人に聞くと、ほぼ全員がこう言う。「思ったより簡単だった」。
手作り味噌の基本的な工程は意外とシンプルだ。大豆を水に浸して一晩置く。翌日、柔らかくなるまで煮る。煮た大豆を潰す。米麹と塩を混ぜる。潰した大豆と合わせる。容器に詰める。あとは待つだけだ。半年から1年、常温で発酵させれば味噌になる。特別な温度管理は要らない。発酵の力を、ただ信じて待てばいい。
もちろん細かいコツはある。大豆の煮加減、麹と塩の混ぜ方、容器の消毒、カビ対策。だが、味噌は人類が何千年も作ってきた発酵食品だ。多少のミスは微生物たちがカバーしてくれる。「失敗」は、味噌の世界では「個性」になる。塩加減が少し違えば味が変わる。麹の量を変えれば甘さが変わる。同じレシピで作っても、毎年味が違う。それが面白い。完璧を目指す必要はない。むしろ、完璧でないことが味噌作りの醍醐味だ。
初期費用も大したことはない。大豆1kg、米麹1kg、塩400g。材料費は2000〜3000円程度で、約3〜4kgの味噌ができる。スーパーで買えば1kgあたり300〜500円の味噌が、手作りだと1kgあたり600〜800円くらい。少し高いが、天然醸造の味噌を蔵元から買えば1kg 1000円以上する。味は手作りのほうが圧倒的に「自分好み」だ。何より、自分で作った味噌には値段では測れない満足感がある。
一番のハードルは「最初の一歩」だろう。だからこそ、味噌蔵のワークショップや手作りキットが人気なのだ。一度作ってみれば、「なんだ、こんなに簡単なのか」と気づく。そして多くの人が、翌年もまた仕込む。味噌作りにはそういう中毒性がある。一度知ってしまうと、もうスーパーの味噌に戻れなくなる人が続出する。
発酵食品ブームの裏にある、「自分の食を取り戻したい」という欲求
手作り味噌ブームの背景には、いくつかの構造的な変化がある。
まず、発酵食品への関心の高まり。ヨーグルト、納豆、キムチ、甘酒、ぬか漬け——発酵食品は腸内環境を整え、免疫力を高めるとされ、健康志向の消費者に支持されている。その延長線上に「味噌を自分で作る」という行動がある。買って食べるだけでなく、「作る過程」に関わりたい。発酵のメカニズムを理解したい。そういう知的好奇心が、手作り味噌に人を向かわせている。
次に、コロナ禍の影響。2020年以降、自宅で過ごす時間が増え、料理に時間をかける人が増えた。パン作り、梅干し作り、ぬか漬け——「手間暇かけて作る」行為自体に喜びを見出す人が増えた。味噌作りもその流れに乗った。しかもパンのように毎日の手入れがいらない。仕込んだら放置するだけ。「ズボラでもできる発酵食品」として、味噌は最適だった。外出できない日々の中で、味噌が静かに発酵していく様子は、不思議と心を落ち着かせるものがあった。
さらに深い背景がある。現代の食卓は、便利になりすぎた。冷凍食品、レトルト、出来合いの惣菜。原材料表示を見れば、読めないカタカナの添加物が並ぶ。多くの人が「自分が何を食べているのかわからない」という漠然とした不安を感じている。食品メーカーを信じていないわけではない。ただ、自分の目で確かめたいという気持ちが、年々強くなっている。
手作り味噌は、その不安への一つの回答だ。原材料は大豆、麹、塩。それ以外、何も入っていない。自分で選んだ大豆、自分で選んだ麹、自分で計った塩。完全に中身がわかる食品を、自分の手で作る。この「透明性」が、現代人が味噌を手作りする最も根源的な動機かもしれない。
国内の味噌市場は縮小傾向にある。味噌の国内出荷量はピーク時から減り続けている。若い世代は味噌汁を飲まない、という話もよく聞く。しかしその一方で、天然醸造味噌や有機味噌など高付加価値商品の売上は伸びている。ひかり味噌の「CRAFT MISO 生糀」のように「そのまま食べてもおいしい」をコンセプトにした新しい味噌がヒットしている。量は減っても、質への関心は高まっている。手作り味噌ブームは、その象徴的な動きだ。
「作る」という行為が、食との関係を根本から変える
味噌を手作りした人がよく口にする言葉がある。「味噌汁の味が変わった」。
物理的に味が変わるのは当然だ。手作り味噌は市販品と比べて風味が豊かで、麹の甘みが感じられ、大豆の香りがする。添加物が入っていないから、味がすっきりしている。出汁との相性も抜群に良くなる。市販品では感じなかった「味噌そのものの味」が、はっきりとわかるようになる。
だが、変わるのは味噌の味だけではない。「食べる」という行為への意識が変わるのだ。
大豆を水に浸す。一晩かけて膨らむ大豆を見る。煮上がった大豆を手で潰す。麹と塩を混ぜ、容器に詰める。半年後、蓋を開ける。仕込んだ時は白かったペーストが、茶色い味噌に変わっている。匂いが違う。味見する。しょっぱい、でもうまい。これが味噌か。自分が作った味噌か。あの白いペーストが、半年の間に微生物たちの力でここまで変わった。その事実に、素朴に感動する。
この体験は、スーパーでパック味噌を買うのとは根本的に違う。自分の手で触れた食品が、時間をかけて「命」を持つ。麹菌や乳酸菌といった目に見えない微生物が、自分の代わりに働いてくれる。半年間、静かに発酵を見守る。その時間の中で、「食べ物は生きている」ということを肌で感じる。
味噌作りの面白さは、「再現不可能性」にもある。同じ材料、同じ分量で仕込んでも、毎年味が違う。気温、湿度、麹の状態、仕込んだ日の気分まで、すべてが味に影響する。工場の規格品とは正反対の世界だ。「今年の味噌は去年より甘いな」「来年はもう少し塩を減らしてみよう」。こうして味噌作りは毎年の「年中行事」になっていく。
日本には古くから「寒仕込み」の文化がある。1月から2月の寒い時期に味噌を仕込むと、ゆっくり発酵が進み、味がまろやかになる。冬に仕込み、夏の暑さで発酵が進み、秋に味噌が完成する。一年の暦と味噌作りが重なる。この季節のリズムを取り戻すことも、現代人にとっては新鮮な体験だ。四季の移ろいを、味噌の変化で感じるようになる。
自分で作った味噌汁の味は、一生忘れない
来年の冬、味噌を仕込んでみないか。
大げさなことではない。大豆1kg、米麹1kg、塩400g。あとは大きめの鍋とジップロックがあれば始められる。YouTubeで「手作り味噌」と検索すれば、わかりやすい動画がいくつも出てくる。近くの味噌蔵がワークショップを開いていないか調べてみるのもいい。プロに教わりながら仕込めば、最初の不安はすぐに消える。
もっと手軽に始めたいなら、手作り味噌キットがある。材料がすべてセットになっていて、説明書通りに混ぜるだけ。失敗しようがない。大豆がすでに煮てあるキットなら、30分もかからず仕込みが終わる。
仕込んだら、あとは放っておくだけだ。冷暗所に置いて、たまに様子を見る。夏を越し、秋の風が吹く頃、蓋を開ける。あの瞬間の感動は、言葉にしにくい。自分が仕込んだものが、ちゃんと味噌になっている。その当たり前が、とてつもなくうれしい。
自分で作った味噌で、味噌汁を作る。一口飲む。それはスーパーで買った味噌とは違う味がする。もしかしたら、プロが作った高級味噌より粗い味かもしれない。でも、うまい。自分が作ったからうまい。その味は、一生忘れない。
味噌は日本人が1000年以上作り続けてきた発酵食品だ。伊達政宗も、江戸の町人も、明治の農家も、みんな味噌を作っていた。スーパーで味噌を買うようになったのは、せいぜいこの50年くらいの話だ。手作り味噌ブームは、日本人が「原点」に立ち返ろうとしている動きなのかもしれない。
一杯の味噌汁から始まる、食との新しい関係。それは案外、自分の手の中にある。
味噌の材料は大豆、麹、塩だけ。仕込んで半年待つだけで、自分だけの一杯ができる。手作り味噌は、食と自分の距離を縮める一番簡単な方法かもしれない。