「味の素は体に悪い」と、なんとなく信じていないか
「味の素って体に悪いんでしょ?」——一度は聞いたことがあるだろう。料理好きの友人が「うちは味の素を使わない」と誇らしげに言う。自然派レストランのメニューには「化学調味料不使用」の文字。SNSでは「味の素は毒」とまで書く人がいる。
あの赤いキャップの小瓶。おばあちゃんの台所には必ずあった。お母さんもこっそり使っていた。でも、なんとなく「使わないほうがいいもの」という空気がある。科学的な根拠は知らないけれど、「化学調味料」という名前がもう、なんだか体に悪そうだ。
しかし、この「なんとなく」の正体を追いかけると、驚くべき事実にたどり着く。
味の素の主成分であるグルタミン酸ナトリウム(MSG)は、世界保健機関(WHO)と国連食糧農業機関(FAO)の合同専門家委員会(JECFA)によって、一日許容摂取量に「上限を定める必要はない」と結論づけられている。アメリカ食品医薬品局(FDA)も安全な食品成分として認定している。ヨーロッパの食品安全機関も同様だ。世界中の主要な食品安全機関が、MSGの安全性を認めている。
それなのに、なぜ「味の素は体に悪い」という神話は消えないのか。
実はこの話、明治時代の日本人科学者の偉大な発見と、1960年代のアメリカで起きたある「事件」、そしてアジアへの偏見が複雑に絡み合っている。一振りの味の素の裏側にある、知られざる物語を辿ってみよう。
湯豆腐の昆布だしから始まった、世界を変える発見
1908年(明治41年)。東京帝国大学の化学教授、池田菊苗は、妻が作った湯豆腐を食べていた。昆布で引いただしの、あのなんとも言えない深い味。甘味でも、酸味でも、塩味でも、苦味でもない。当時の科学では、人間の味覚は「甘味・酸味・塩味・苦味」の4つとされていた。だが池田は確信していた。もう一つ、別の味がある、と。
池田は京都生まれ。関西の昆布だし文化の中で育った人だ。幼少期から昆布の味に親しみ、この「第5の味」の正体を突き止めたいと思い続けていた。
ドイツ留学から帰国した池田は、ドイツ人の体格の良さに衝撃を受けていた。日本人の栄養状態を改善したい。おいしくて安い調味料があれば、粗末な食事でも味が良くなり、食が進む。栄養状態が改善される——。科学者としての知的好奇心と、国民の健康を想う使命感が、池田を突き動かした。
1908年2月、池田はついに昆布だしの「うま味」成分を突き止めた。12kgの昆布からわずか30gの結晶を取り出すことに成功。それがグルタミン酸——アミノ酸の一種だった。池田はこの味を「うま味」と命名した。甘味、酸味、塩味、苦味に続く、第5の基本味の発見だった。
同年4月、池田はグルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造法で特許を取得。事業化を任された鈴木三郎助によって、1909年に「味の素」という商品名で発売された。「味の元(もと)」ではなく「味の素(もと)」。日本舞踊の家元を連想させる「元」より「素」のほうが良いという一言で決まったという逸話が残る。
この発見は後に「日本の十大発明」の一つに選ばれた。だが、「うま味」が国際的に第5の基本味として正式に認められるまでには、さらに約100年を要した。2000年に舌にグルタミン酸の受容体が発見され、科学的にも「うま味」は味覚として確立された。Umami——日本語がそのまま世界の科学用語になった。
「MSG有害説」はいかにして生まれたか——1968年の手紙と、人種偏見
味の素が「悪者」にされた歴史は、1968年のアメリカから始まる。
ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン——世界で最も権威ある医学雑誌の一つに、ある「読者投稿」が載った。中華料理を食べた後に、顔のほてり、頭痛、しびれなどの症状が出たというものだ。投稿者は、原因としてMSG、食塩の過剰摂取、紹興酒の可能性を挙げていた。
重要なのは、これが査読を経た「医学論文」ではなく、読者コラムに過ぎなかったことだ。科学的な検証はされていない。しかし、メディアはこれに飛びついた。ニューヨーク・タイムズが「Chinese Restaurant Syndrome(中華料理店症候群)」として報道し、一気に社会現象になった。
翌1969年、科学雑誌『Science』に、マウスの腹腔にMSGを大量注射したら脳に障害が出たという論文が掲載された。これがさらに不安を煽った。しかしこの実験には根本的な問題があった——食品の安全性を調べるのに、なぜ「注射」するのか。口から食べるのと注射では体内での処理がまるで違う。リンゴに多く含まれる塩化カリウムだって、注射すれば動物は死ぬ。その後、60kgの人に換算して1日2.6kgに相当する大量のMSGを食事に混ぜてマウスに与えた実験では、何の障害も起きなかった。
だが、「MSGは危険」というイメージは一度広まると止まらなかった。ここには科学以外の要因もあった。1960年代のアメリカには、農薬や食品添加物への反対運動が広がっていた。そして、アメリカ人研究者自身が指摘するように、「アジアから来たわけのわからない調味料」への人種的偏見も背景にあった。中華料理店「だけ」が原因とされ、ステーキハウスやイタリアンで同じ症状が問題にされることはなかった。トマトやチーズにも大量のグルタミン酸が含まれているにもかかわらず。
19年間にわたる科学的検証の結果、FDAを含む研究機関がMSGと中華料理店症候群の因果関係を否定した。JECFAは一日許容摂取量に上限を設けないと決定。二重盲検法による臨床試験でも、MSGと症状の関連は認められなかった。科学の世界では決着がついている。
しかし、「安全でした」はニュースにならない。「危険かもしれない」の19年間の報道は人々の記憶に焼きついたが、「安全だった」という結論は静かにスルーされた。こうして「MSG神話」だけが残った。日本でも「化学調味料」という呼称がネガティブなイメージを固定化させた。NHKが商品名を使えないために作った代替語が、皮肉にも「化学的で体に悪そう」という印象を広めてしまった。
グルタミン酸は「自然の味」そのものだった
「化学調味料」という名前が誤解を生む最大の原因だろう。しかし、グルタミン酸は自然界のいたるところに存在する。
昆布、トマト、チーズ、しいたけ、味噌、醤油——これらの食品が「おいしい」と感じる理由の多くは、含まれるグルタミン酸にある。パルメザンチーズ100gには約1.2gのグルタミン酸が含まれる。完熟トマトにも豊富だ。母乳にすら多量に含まれている。人間の体重の約2%はグルタミン酸だ。
つまり、味の素を一振りすることは、昆布だしを少し足すのと本質的に同じことだ。現在の味の素は、サトウキビなどの天然原料を微生物発酵させて作られている。石油から合成しているわけではない。製法としては、味噌や醤油と同じ「発酵」だ。
面白いことに、うま味の恩恵を最も受けているのは、実は日本料理だ。昆布と鰹節の合わせだし——これはグルタミン酸とイノシン酸の「うま味の相乗効果」を利用した、世界に類を見ない技法だ。日本人は科学的に「うま味」を発見する遥か以前から、経験的にその原理を料理に活かしていた。
さらに注目すべきは、MSGには減塩効果があるということだ。うま味を加えることで、塩分を減らしてもおいしさを保てる。高血圧が国民病である日本において、これは大きな意味を持つ。味の素を「悪者」として排除することが、かえって塩分過多を招く可能性すらある。
世界のトップシェフたちも、今やうま味を積極的に活用している。かつてMSGを忌避していた欧米のシェフたちが、和食の「だし」に学び、うま味を料理に取り入れている。2013年に和食がユネスコ無形文化遺産に登録された背景にも、「うま味」という概念の世界的な認知がある。
もちろん、何でもそうだが使い過ぎれば味のバランスは崩れる。味の素を大量に振れば、料理は不自然な味になる。適量を知ること、素材の味を大切にすること。それは味の素に限らず、砂糖でも塩でも同じことだ。
赤いキャップの小瓶を、もう一度見直してみる
あなたの台所に、味の素はあるだろうか。
もしあるなら、ちょっと手に取ってみてほしい。赤いキャップの小瓶。裏面の原材料表示には「調味料(アミノ酸等)」と書いてある。その中身は、1908年に池田菊苗博士が昆布から取り出した、あの「うま味」の結晶だ。
もし台所にないなら、それはそれでいい。昆布でだしを引く人も、顆粒だしを使う人も、味の素を一振りする人も、結局は同じ「うま味」を料理に加えている。方法が違うだけで、目指しているものは同じだ。
ただ、「味の素は体に悪い」という根拠のない思い込みだけは、そろそろ手放してもいいのかもしれない。WHO、FDA、JECFAといった世界の食品安全機関が安全性を認めている。科学的には決着がついている話だ。
池田菊苗博士がドイツから帰国して抱いた願い——「日本人の栄養状態を改善したい」。その願いから生まれた「うま味」の発見は、今や「Umami」として世界共通語になった。日本が世界の食卓に贈った、最も偉大な発見の一つだ。
味の素を使うか使わないかは、個人の自由だ。好みの問題だ。でも、「なんとなく体に悪そう」という理由で遠ざけるのは、もったいない。116年前に池田博士が昆布から見つけた味の魔法を、正しく知って、正しく使う。それだけで、毎日の食卓が少しだけ豊かになる。