「今夜、五反田で」と言われて、驚かなくなったのはいつからだろう。
正直に打ち明けると、筆者が20代のころ、五反田は「用があるから行く街」だった。接待か、乗り換えか、終電を逃したときか。降りる理由が自分の食欲だったことは、ほとんどなかった。ネオンの看板が並ぶ通りの印象が強すぎて、その奥に何があるのかを見にいこうと思わなかった。
それがいつの間にか、食べるのが好きな知り合いの口から、当たり前のように五反田の名前が出るようになった。しかも「安くてすごい店がある」という文脈で出てくる。
この記事は、その店を並べる話ではない。なぜあの街に、良い店が育つのか。地形と、客と、イメージ。三つの層を順にはがしていくと、街の設計図のようなものが見えてくる。
海抜3メートルの駅と、27メートルの高台
まず、地面の話から始めたい。五反田という街を理解する最短の道は、じつは坂にある。
五反田駅の一帯は、目黒川がつくった低地にある。海抜でいえば3メートルから4メートルほど。ところが駅前から桜田通りを南へ上っていくと、上りきったあたりで標高は約27メートルになる。数百メートル歩くだけで、ビルの7階から8階ぶんの高さを移動していることになる。
そして上りきった先にあるのが、池田山と島津山だ。どちらも江戸時代の大名屋敷の跡である。池田山は備前岡山藩・池田家の下屋敷があった場所で、いまの東五反田4・5丁目のあたり。島津山は旧島津公爵邸に由来し、現在は清泉女子大学が建っている。御殿山や花房山などと合わせて「城南五山」と呼ばれる、都内でも指折りの高級住宅地だ。
つまり五反田は、低い土地と高い土地が、驚くほど短い距離で隣り合っている街である。川沿いの低地には、かつて工場が並んだ。人が集まり、盛り場ができた。一方、坂の上には静かな邸宅街が広がったままだ。
この高低差を、筆者は一度、真夏に歩いて実感したことがある。駅前の喧騒から坂を上りきったところで、急に音が消える。同じ駅の徒歩圏とは思えない。街がふたつ、背中合わせに存在している。
五反田のグルメが育つ、三つの条件
ここからが本題だ。良い店が育つ街には、だいたい共通する条件がある。五反田の場合、それは三つあるように見える。
条件その一。地形が、小さな区画を残した
低地の街は、区画が細かい。目黒川に向かって傾いた土地に、道が入り組んだまま残っている。大きな敷地をまとめて取りにくいということは、大型店が入りにくいということでもある。
結果として残るのは、雑居ビルの上階や、路地の奥や、高架の下といった、小さくて安い箱だ。これは店を始める側から見ると、意味がまるで違ってくる。数席から十数席で回せる規模なら、一人でも始められる。人を雇わず、自分の手の届く範囲で、やりたい料理をやれる。
街の作りが、そのまま店の作りを決めている。
条件その二。客が二重にいる
五反田には、昼の客と夜の客が別々にいる。オフィスで働く人と、坂の上や周辺に住んでいる人だ。そこへ2010年代以降、もう一種類の客が加わった。
クラウド会計のfreeeが麻布十番から五反田へ移ってきたのが2014年。その翌年あたりからIT系の会社が集まりはじめ、2016年からの数年で約25社が移転してきたという。2018年7月には、五反田に拠点を置くスタートアップ6社——freee、マツリカ、ココナラ、セーフィー、トレタ、よりそう——が「一般社団法人五反田バレー」を設立した。
なぜ五反田だったのか。理由のひとつははっきりしている。家賃だ。渋谷のオフィスが坪あたり2万円から3万円という時期に、五反田は1万円台だった。加えて周辺に住宅街が広がっているから、職場の近くに住める。
ここで効いてくるのが、その差が飲食にも同じように効くという点だ。同じ料理を出すのに、渋谷や恵比寿より低い固定費で店を持てる。浮いたぶんを、素材に回せる。「安いのに、この内容か」という店が生まれる条件が、街の家賃表の中にすでにある。
条件その三。イメージに、空白があった
三つ目がいちばん面白い。五反田には長いあいだ「食べに行く街」というイメージがなかった。
この街が盛り場になった経緯は、けっこう古い。大正期に鉱泉が出て温泉旅館ができ、花街として発展した。三業地として指定されたのが大正12年、1923年のことだ。関東大震災のあとに人口が増え、隣接する大崎の工場で働く人たちの娯楽の場になっていった。戦後は焼け跡に歓楽街が立ち上がり、昭和20年代から30年代にかけては、バラックの飲み屋街が広がっていたという。
その歴史が、そのまま街の看板になった。夜の街というイメージが強いと、食の街としては評価されにくい。ここが逆説で、評価されないということは、地価にも家賃にも「食の街プレミアム」が乗らないということでもある。
街の記憶が値段の上昇を止めているあいだに、実力のある店が静かに入ってきた。亀戸がホルモンの聖地になったのも、赤羽が飲む街になったのも、構造としてはよく似ている。産業と労働者がいて、安い区画があって、街のイメージが値段を抑えている。良い店は、たいていそういう場所から生まれる。
五反田バレー以降。看板が書き換わった街
変わったのは、店ではなくイメージのほうが先だったのだと思う。
「五反田バレー」という呼び名は、いまも現役だ。2018年に6社で始まった一般社団法人には、その後100社以上が参加している。2026年の2月から3月にかけては、TOCビルの1階を使った実験的なコワーキングスペースの運用も予定されている。街のスタートアップと地元企業をつなぐ動きは、名前だけのものになっていない。
この呼び名が街にもたらしたのは、資金でも人口でもなく、たぶん語られ方だ。「五反田で飲もう」と言いやすくなった。夜の街という一枚の看板の上に、もう一枚の看板がかかった。看板が二枚あると、人は奥を見にいく。
街の姿そのものも動いている。池上線の高架下には2018年に商業施設ができた。目黒川沿いの東五反田2丁目第3地区では、公園や住宅、商業施設を含む再開発が進み、2026年度の竣工を目指している。大崎や品川の再開発でタワーマンションが増え、住む人の数も増えた。
当然、いい話ばかりではない。オフィスの賃料は2026年に入って坪1万円台後半から2万円台半ばまで上がってきている。かつての「渋谷の半分」という差は、少しずつ縮んでいる。家賃が上がれば、小さな店の体力は削られる。街が発見されるということは、その街の安さが終わりはじめるということでもある。
それでも、五反田がすぐに均されてしまうとは思えない。理由は最初に書いた地形だ。坂と細街路は再開発の外側にそのまま残る。大通り沿いが新しくなっても、一本入った路地の区画は、簡単には大きくならない。小さな箱が残るかぎり、小さな店は入り続ける。
目黒川と反対側の坂を、一本入る
だからこの記事は、店の名前を並べない。代わりに、路地の入り方をひとつ渡しておきたい。
五反田で降りたら、目黒川と反対側——駅から桜田通りを上っていく方向へ、一本だけ細い道に入ってみてほしい。大通りに面していない店を、意識して見る。看板が小さく、階段が急で、外から中が見えない店ほど、その街の実力が出やすい。低地の細い区画は、そういう店のためにあるようなものだ。
失敗することもある。それでいい。三軒に一軒当たれば、その街は十分に良い街だ。当たった一軒は、たぶん誰かに教えたくなる。
正直に言えば、筆者はいまだに五反田を歩き尽くせていない。あの街は、駅から半径500メートルのなかに層が多すぎる。花街の名残と、工場の記憶と、雑居ビルと、坂の上の静けさが、全部同じ徒歩圏にある。
次に予定のない夜があったら、理由をつくらずに降りてみてほしい。坂を一本、上ってみるだけでいい。
街は、路地の奥から見える。