行列を避けた先に、カツカレーの原点があった

銀座の洋食屋をなめていた。昼どきの銀座3丁目、大正軒の前には行列。煉瓦亭も行列。どこもかしこも行列だ。休日に洋食を食べようと思っただけなのに、30分待ち、40分待ちの文字が並ぶ。正直、心が折れた。

並ぶのをやめて、路地をひとつ曲がった。看板が目に入る。「銀座スイス」。聞いたことはある。でも入ったことはなかった。行列はない。席が空いている。逃げるようにして、店に入った。

メニューを開いて、目が止まった。「千葉さんのカツカレー」。千葉さんとは誰だ。読み進めると、こう書いてある。カツカレー発祥の一皿。昭和23年、巨人軍の千葉茂選手の注文から生まれた——。

🍛 正直、行列に並ぶのが嫌で逃げただけだ。でもたまに、逃げた先にとんでもない出会いがある。

「カツカレー 発祥」で検索したことがある人も多いだろう。あるいは、飲み会で「カツカレーって実は日本発祥の料理で……」と話したことがある人もいるかもしれない。その答えが、この店にある。銀座3丁目の雑居ビルの1階。行列のできる名店の陰に隠れるようにして、カツカレーの原点は静かに営業を続けている。

行列を避けたことを、これほど感謝した日はなかった。

首相官邸の総料理長が開いた洋食屋

銀座スイス。創業は昭和22年(1947年)。終戦からわずか2年後のことだ。焼け野原だった銀座に、一軒の洋食屋が産声を上げた。

創業者の岡田進之助は、ただの料理人ではない。麹町の名店「宝亭」で修業を積んだのち、首相官邸の総料理長を務めた人物だ。国の要人に料理を出してきた腕が、戦後の銀座で洋食屋を始める。その事実だけで、この店のカレーがただのカレーではないことが想像できるだろう。

店名の「スイス」には、創業者の願いが込められている。永世中立国スイス。戦争を二度と繰り返さないでほしい、平和であってほしい——。戦地から帰ってきた料理人が、自分の店に「スイス」と名づけた。その重みを、メニューを眺めながら思う。

次男の岡田義人は帝国ホテルで修業した。同期には、のちに帝国ホテル総料理長となる村上信夫がいたという。日本のフランス料理界を代表する巨人と、同じ厨房で腕を磨いた。首相官邸の総料理長の技術と、帝国ホテル仕込みの技術。この二つが合流した先に、銀座スイスのカレーがある。

銀座3丁目という一等地で、77年以上。テナントが入れ替わり、街の風景が変わり、時代が何度も塗り替えられる中で、この洋食屋はずっとここにいる。流行を追わず、奇をてらわず、ただ同じ場所で同じ味を出し続ける。それがどれほど難しいことか、飲食業に少しでも関わったことがある人ならわかるはずだ。

1948年、巨人軍の選手が「カレーにカツを乗っけてくれ」と言った

昭和23年(1948年)のある日のこと。読売巨人軍の千葉茂選手が、銀座スイスのカウンターに座っていた。千葉は銀座テーラーでユニフォームを仕立てていた縁で、練習帰りにこの店に通っていた常連客だった。

その日、千葉は言った。「カレーライスにカツレツを乗っけてくれ」。

今でこそカツカレーは国民食だ。カレーチェーンに行けば当たり前のようにメニューにある。コンビニにもレトルトにも、カツカレーはどこにでもある。だが1948年当時、カレーライスにトッピングをするという発想自体が存在しなかった。カレーはカレー。カツレツはカツレツ。それぞれ別の料理だった。

千葉の「わがまま」に、厨房は応えた。カレーライスの上に、揚げたてのカツレツを乗せて出す。それを見た周囲の客が「俺にもあれを」と注文した。ひとり、またひとり。やがてメニューに載り、「カツカレー」という料理が誕生した。

一人のプロ野球選手の思いつきが、日本の食文化を変えた。銀座スイスのカウンターで生まれたその一皿は、やがて全国に広まり、今や日本人なら誰もが知る料理になった。そして今もこの店のメニューには「千葉さんのカツカレー」として残っている。

⚾ 巨人軍の選手のわがままが、日本中のカツカレーの原点になった。この話を知ってから食べるカツカレーは、少し味が違う。

帝国ホテルのカレーを原型に、77年間作り続けられてきた味。レシピを大きく変えることなく、毎日同じ鍋でカレーを仕込む。創業者が首相官邸で磨いた技術と、帝国ホテルで学んだ洋食の基礎。その二つが溶け込んだカレーソースは、一口食べれば「ああ、これは歴史のある味だ」とわかる。舌が、時間の厚みを感じ取るのだ。

トルネードステーキと千葉さんのカツカレー——実食

まず、トルネードステーキを頼んだ。豚ヒレ肉にベーコンを巻いた、クラシックな洋食の一品だ。肉はあっさりしている。脂でごまかすタイプの料理ではない。だからこそ、ソースが映える。何十年も受け継がれてきたデミグラスソースが、肉の味を静かに引き上げる。派手さはない。でも、一口ごとに「ちゃんとした洋食だ」という安心感がある。

そして、千葉さんのカツカレー。皿が出てきた瞬間、まずボリュームに驚く。カツが大きい。カレーの量もたっぷりだ。ナイフでカツを切ると、衣がサクッと小気味よい音を立てる。中の肉はジューシーで、噛むと旨みがじわりと広がる。

カレーソースをすくって口に運ぶ。最初に感じるのは、野菜の甘みだ。玉ねぎやにんじんが長時間煮込まれて溶け込んでいる。その奥から、スパイスの複雑な香りが追いかけてくる。辛さで押すタイプのカレーではない。奥行きで勝負するカレーだ。添えられた福神漬けまでうまい。ひとつひとつの要素に手を抜いていないことが、箸を動かすたびに伝わってくる。

食べ終えたとき、「ちゃんと食べた」という感覚があった。ラーメンを5分でかき込み、牛丼を3分で流し込む日々の中で、忘れかけていた感覚だ。席に座って、メニューを開いて、ナイフとフォークを手に取って、一口ずつ味わう。その時間のすべてが「食事」になる。

行列のできる名店には行列のできる理由がある。でも、行列のない名店にも、行列のない理由がある。銀座スイスの場合、それは「知られていない」のではなく、「知っている人が静かに通っている」ということなのだと思う。

ラーメン5分、牛丼3分の時代に、洋食屋で過ごす1時間。その贅沢さに気づいたとき、銀座スイスのカツカレーは、ただの昼食から「体験」に変わる。

次の休みは、洋食屋に行こう

ラーメンで済ませていたランチが、銀座の洋食屋で目が覚めた。大げさに聞こえるかもしれないが、本当にそうだった。ナイフとフォークで肉を切り、カレーをすくい、福神漬けをつまむ。たったそれだけの動作が、日常のリズムを変えてくれた。

銀座の洋食屋は、大正軒、煉瓦亭、銀座スイス、どこも何十年と続いている。流行りの店ではない。バズった店でもない。でも昼どきには行列ができる。あるいは、行列にはならなくても、席が静かに埋まっていく。そういう店が、銀座にはまだ何軒もある。

流行りでもバズりでもない。SNSで映える一皿があるわけでもない。でも何十年と続いている。そこには「続いている理由」が必ずある。味か、人か、場所か、あるいはそのすべてか。理由を確かめに行く、というのも、洋食屋を訪ねる立派な動機だと思う。

洋食には「時間をかけて食べる」贅沢がある。スマホを置いて、目の前の皿に集中する。ソースの味を舌の上で転がす。付け合わせのポテトサラダまでちゃんと味わう。そういう食事をすると、午後の気分が変わる。食で節目を刻むというのは、何も特別な日だけの話ではない。ふつうの火曜日のランチだって、洋食屋に行けば小さな節目になる。

次の休みは、どこの洋食屋に行こうか。煉瓦亭のオムライスか、大正軒のハンバーグか、それとも銀座スイスのカツカレーか。もうそのことばかり考えている。

行列に並んでもいい。行列を避けてもいい。どちらにしても、銀座の洋食屋はちゃんと待っていてくれる。何十年も前から、ずっとそこにいるのだから。

店舗情報

店名銀座スイス
住所東京都中央区銀座3-5-16
最寄駅東京メトロ銀座線・丸ノ内線・日比谷線 銀座駅 A13出口より徒歩2分
営業時間11:00〜21:00(L.O. 20:30)
定休日日曜・祝日
予算ランチ 1,500〜2,500円
KOTOHAREの視点:昭和22年創業、銀座スイス。首相官邸の総料理長が開いた洋食屋で、昭和23年に巨人軍・千葉茂選手の「カレーにカツを乗っけてくれ」から生まれたのが、日本のカツカレーの原点だ。帝国ホテルのカレーを土台に77年間作り続けられてきた一皿は、食べれば「歴史の味」がわかる。行列のある名店の陰で、行列のない名店が静かに営業を続けている。銀座に行く理由が、また一つ増えた。