開店前に着いた。それなのに、整理券の番号は40番だった。
平日の朝、東京メトロ末広町駅から徒歩2分。秋葉原にほど近いビルの地下に、その店はある。鳥つね自然洞。看板は控えめで、知らなければ通り過ぎてしまうだろう。それでも、開店の11時30分を前に、階段には長い列ができている。目当てはただひとつ。特上親子丼、限定20食。
親子丼を食べるために、40人が並ぶ。しかも平日に。この事実だけで、普通の親子丼ではないことは察しがつく。だが、もうひとつ驚くことがある。その親子丼は、3,500円する。
親子丼に3,500円。牛丼チェーンなら7杯は食べられる金額だ。ランチに出せる額としては、正直なところ躊躇する人のほうが多いだろう。それでも人が並ぶ。しかも、一度食べた人がまた並ぶ。リピーターが列の大半を占めるというのだから、ただごとではない。
いったい、この親子丼には何が起きているのか。
「親子丼に3,500円?」——食べる前の自分に言いたいこと
親子丼といえば、家庭料理の代表格だ。鶏肉と卵を甘辛いだしで煮て、ご飯にのせる。シンプルで、どこか懐かしくて、誰でも作れる。だからこそ、「わざわざ外で食べるもの?」「しかも3,500円?」という疑問が浮かぶのは自然なことだ。
たしかに、世の中には高級な親子丼を出す店がいくつかある。ブランド地鶏を使ったもの、高級卵を使ったもの。でも、3,500円という値段は、その中でも群を抜いている。相場で言えば、名店と呼ばれる親子丼でも1,500円から2,000円が上限だろう。その倍近い価格を、ランチに払う価値があるのだろうか。
正直、親子丼に3,500円は高いと思っていた。食べる前までは。
鳥つね自然洞の特上親子丼セットでは、親子丼の前にまず「鳥しんじょう」が出てくる。鶏の挽肉と玉葱を30分から40分かけて鍋で丹念に練り上げ、パン粉をつけて揚げたものだ。添えられているのは、土佐の天日乾燥で仕上げた塩。この塩をほんの少しつけて口に運ぶと、外はカリカリ、中はほろほろと崩れる。鶏肉の甘みが、じわりと広がっていく。
この塩がとんでもなくうまい。鳥しんじょうを食べた瞬間、この店がただの親子丼屋ではないと理解した。
前菜ひとつで、価格への疑問が消えた。いや、正確には「これは親子丼に3,500円を払っているのではない」と気づいた、というべきかもしれない。鳥つね自然洞が提供しているのは、鶏という食材のすべてを味わい尽くすコース料理のような体験なのだ。鳥しんじょうは、その序章にすぎない。
この店の本題は、ここからだ。
特上親子丼の正体——すべてが「ふつう」ではない
鳥つね自然洞の特上親子丼に使われる鶏肉は、2種類の地鶏のブレンドだ。秋田の比内地鶏と、名古屋コーチン。比内地鶏は、しまった肉質と野性味のある味わいが特徴で、噛むほどに旨みが出る。一方の名古屋コーチンは、こくのある深い旨味を持ち、脂のバランスがいい。この2種を組み合わせることで、単一品種では出せない奥行きのある味を生み出している。
さらに驚くのは、使う鶏の条件だ。卵を産む直前の、160日齢から180日齢のメスのみ。この時期のメスは、産卵に向けて体に脂がのり、肉に独特のふくよかさが宿る。一般的なブロイラーが50日前後で出荷されることを考えると、3倍以上の時間をかけて育てた鶏ということになる。
鶏は丸鶏の状態で、内臓付きのまま取り寄せる。それを店主の佐々木久哉氏が自らさばく。部位ごとの状態を確認しながら、親子丼に使う肉を選り分けていく。大量仕入れの切り身ではなく、一羽一羽と向き合う。これだけで、どれほどの手間がかかっているか想像できるだろう。
卵は兵庫県産の「日本一こだわり卵」をL玉で3個使用する。黄身の色が濃く、箸でつまめるほどのコシがあるこの卵を、佐々木氏はほとんど溶かない。白身と黄身をさっと切る程度。一般的な親子丼のように、よくかき混ぜて均一にはしないのだ。なぜか。溶きすぎると卵が割下を吸って固まってしまう。さっと切るだけにすることで、白身のとろりとした部分と黄身の濃厚な部分が共存し、あのとろとろの食感が生まれる。
割下もまた、常識を覆す。再仕込み醤油と、3年以上熟成させた本みりん、そしてごく微量の砂糖。それだけ。だしは入れない。一般的な親子丼の割下にはかつおだしや昆布だしが欠かせないと思われているが、佐々木氏はあえて引かない。鶏肉そのものから出る旨味を、だしの代わりにする。素材の力だけで成立させる、という覚悟がこの割下にはある。
米は福島県喜多方市の、たった1軒の農家から取り寄せる無農薬コシヒカリだ。佐々木氏はこの農家と27年から28年の付き合いがあるという。ほぼ30年間、同じ農家の米だけを使い続けている。信頼関係というよりも、もはや運命共同体に近い。
そして、仕上げ。火を止めるタイミングは0.5秒単位で判断する。目で見るのではない。鍋蓋の小さな穴から立ちのぼる煙の量と勢いで、卵の火入れ具合を読む。何十年もこの親子丼を作り続けてきた佐々木氏にしかわからない「煙の言葉」だ。
「卵を食べるような親子丼」——それが佐々木氏の目指す姿だ。鶏肉が主役ではなく、卵のとろとろ感こそがこの丼の核心にある。そのために、すべての食材と工程が逆算されている。
ここまで読んで、3,500円が高いと思うだろうか。比内地鶏と名古屋コーチンの丸鶏を自分でさばき、兵庫の高級卵をL玉3個使い、28年来の農家の無農薬米を炊き、0.5秒の火加減で仕上げる。佐々木氏自身が「出せば出すほど赤字」と語る。だから1日限定20食なのだ。これ以上出したら、店が立ち行かなくなる。
佐々木久哉という料理人——7年かけて「これだ」に辿り着く
鳥つね自然洞の歴史は、大正時代に遡る。湯島天神前に創業した鳥料理の老舗「鳥つね」の支店として、1972年に開業した。場所は御徒町から秋葉原にかけてのエリア。ビルの地下という立地は、華やかさとは無縁だ。でも、それがいい。地上の喧騒から一段下りた先に、静かな別世界がある。
佐々木久哉氏がこの店を任されたのは、まだ20代の頃だった。以来、30年以上を鳥料理一筋に捧げてきた。「鶏のことしか考えていない」と言い切れる人生を歩んできた料理人だ。
あの特上親子丼に使われる食材たちは、ある日突然見つかったわけではない。佐々木氏は週に一度の休みのたびに、地方へ食材を探しに出かけた。北へ南へ、生産者を訪ね、鶏を見て、卵を食べ、米を噛み、塩を舐めた。そうやって7年から8年の歳月をかけて、ようやく「これだ」という食材に出会ったのだという。
「いい素材に出会えたのですから、その素材を活かすだけです」
佐々木氏のこの言葉は、謙虚に聞こえるかもしれない。だが、「いい素材に出会う」ために8年近くを費やしたことを知れば、その重みは変わってくる。出会うまでの旅があり、出会ってからの研鑽がある。「活かすだけ」の裏には、気の遠くなるような試行錯誤が隠れているのだ。
佐々木氏は創作料理をしない。新しい調理法や派手な盛り付けに走ることもない。鶏をシンプルに食べてもらうことが信条だ。素材がよければ、余計なことはしなくていい。それは、8年かけて「これだ」と確信した食材への揺るぎない信頼があるからこそ言えることだろう。
鳥つね自然洞は、故・安倍晋三元首相がこよなく愛した店としても知られている。政治家や著名人が通う店は東京に数多くあるが、ビルの地下にある鶏料理店にわざわざ足を運んでいたというのは、それだけこの店の実力が本物だということの証左でもある。
ただ、佐々木氏にとって、誰が来るかは関係ないのだと思う。総理大臣が来ても、初めての客が来ても、同じ親子丼を出す。同じ丸鶏をさばき、同じ卵をさっと切り、同じ0.5秒の火加減で仕上げる。そこにブレがないからこそ、人が信頼する。
40番目でも、また並びたくなる理由
東京には、美味しい店がいくらでもある。予約の取れない名店、メディアで話題の新店、行列のできるラーメン屋。選択肢は無限だ。そんな中で、平日の朝から40人が並ぶ店があるということの意味を、少し考えてみてほしい。
限定20食ということは、40番目では食べられない可能性もある。それでも人は並ぶ。なぜか。「もしかしたら食べられるかもしれない」という期待と、「この店の鶏料理なら、親子丼じゃなくても満足できる」という信頼があるからだ。実際、特上親子丼にありつけなかった人たちも、通常の親子丼や鶏料理のコースを注文して、十分に満足して帰っていく。
40人並んでも、食べたあとに「また来よう」と思える店は、東京にそう多くない。行列に並んでいる時間は長いし、3,500円という金額は安くない。でも、帰り道に感じるのは後悔ではなく、静かな充足感だ。「ああ、来てよかった」。その一言に尽きる。
帰り道、もう次いつ行くか考えていた。末広町の駅に向かう数分の道のりで、カレンダーを開いている自分がいた。こういう体験は、なかなかない。
鳥つね自然洞が教えてくれるのは、「ふつうの料理」なんてものは存在しない、ということかもしれない。親子丼という、誰もが知っている料理。それを一生かけて極めようとしている人がいる。7年かけて食材を探し、0.5秒の火加減を追い求め、赤字になっても限定20食を守り続ける。その執念が、一杯の丼に凝縮されている。
もし東京で「一皿だけ食べるなら何を?」と聞かれたら、この親子丼の名前を挙げる人は少なくないだろう。末広町駅から徒歩2分、ビルの地下。華やかさはないが、一口で記憶に刻まれる。そういう店が、東京のど真ん中に、静かに存在している。
店舗情報
- 店名
- 鳥つね自然洞(とりつね しぜんどう)
- 住所
- 東京都千代田区外神田5-5-2
- TEL
- 03-5818-3566
- 営業時間
- 昼 11:30〜13:30(L.O.)/ 夜 17:30〜22:00(L.O. 21:00)
- 定休日
- 日曜・祝日
- アクセス
- 東京メトロ銀座線 末広町駅より徒歩2分
- 予算
- ランチ 2,000〜3,500円 / ディナー 15,000〜19,000円
- 備考
- 特上親子丼は昼のみ・限定20食(売り切れ次第終了)。食べログ3.75、鳥料理百名店2025選出、ミシュランビブグルマン掲載歴あり