初めて富山ブラックを見た人は、だいたい引く
🍜 俺が初めて富山ブラックを食べたのは、出張先の富山駅前だった。丼が来た瞬間、「これ醤油こぼしてません?」と本気で聞きそうになった。あの黒さは、写真では伝わらない。
スープが、異様に黒い。東京や大阪で食べる醤油ラーメンの茶色とは次元が違う。底が見えない。墨汁に麺を入れたような色だ。
その上に、粗挽きの黒胡椒がこれでもかと振られている。チャーシューは分厚くて塩辛い。メンマも濃い。ネギも辛い。すべてが「濃い」で構成された一杯。
初見の人が「なんだこの色は」と驚くのは当然だ。SNSには「ヤバい色のラーメン食べた」という投稿があふれている。見た目だけなら、日本で最もインパクトのあるラーメンかもしれない。
ただ、あの黒には理由がある。奇をてらったわけでも、SNS映えを狙ったわけでもない。あの色は、1945年から始まった物語の色だ。
富山ブラック発祥の地。焼け野原の屋台から始まった
1945年8月1日深夜。B-29爆撃機174機が富山市の上空に現れた。約1万2,700発の焼夷弾が投下され、1時間51分の爆撃で市街地の99.5%が焼失した。死者は2,700人を超える。原爆を除けば、全国最悪の破壊率だ。富山は文字通り、焼け野原になった。
そこから復興が始まる。瓦礫を片づけ、道を通し、建物を建てる。街には大勢の肉体労働者が集まった。真夏のコンクリートの上で、朝から晩まで汗を流す日々だ。
昭和22年(1947年)、高橋青幹という人物が富山市西町で屋台を出した。後の「大喜」——富山ブラック発祥の店である。
高橋が作ったのは、普通のラーメンではなかった。労働者たちはアルミの弁当箱に白飯をぎっしり詰めた「ドカ弁」を持参していた。その白飯の「おかず」になるラーメンを考えた。
ラーメンが、おかず。現代の感覚では違和感がある。しかし当時の労働者にとって、白飯こそがエネルギーの源だった。汗で失われる塩分を補い、白飯をもっと食べ進められるように——醤油を限界まで濃くした。チャーシューもたっぷりのせた。物のない時代に、少しでも栄養をつけてほしいという思いからだ。
あの黒は、だから必然だった。見た目のインパクトを狙ったのではない。汗まみれの労働者が昼休みに白飯をかき込むための、実用の色だ。
「富山ブラック」の名前は、なぜ半世紀も存在しなかったのか
意外なのは、「富山ブラック」という名前が生まれたのが2000年前後だということだ。ラーメン自体は1947年に誕生しているから、50年以上も「名前のない黒いラーメン」だった。
地元の人にとっては「大喜のラーメン」であり、富山のラーメンだった。わざわざ「ブラック」と呼ぶ必要がなかった。黒いのが当たり前だったのだ。
名前がついたきっかけは、インターネット掲示板やテレビの取材だったとされる。外から来た人間が「なんだこの黒さは」と驚き、ラベルを貼った。地元民ではなく、外の目が名前を与えた。
🍜 50年間「名前がなかった」という事実がいい。日常すぎて名前をつける必要がなかった。「富山ブラック」は、よそ者がつけたあだ名だ。よそ者の俺が言うのもなんだが。
全国に名前が轟いたのは2009年。富山の「麺家いろは」が第1回東京ラーメンショーに出店し、売上1位を獲った。以降、通算5度の日本一。この実績が「富山ブラック」をご当地ラーメンの代名詞に押し上げた。
カップ麺にもなった。寿がきやや東洋水産から商品化され、コンビニの棚に並ぶようになった。2015年の北陸新幹線開業も追い風になり、富山を訪れる観光客の「食べたいものリスト」に富山ブラックは定着した。100年続く飲食店の物語でも書いたが、時代の波を何度も越えてきた店には理由がある。大喜のラーメンもまた、時代が必要としたから生まれ、時代が見出したから残った。
あの黒さの向こうに、誰かの汗がある
ただ、地元では意外なほど賛否が分かれる。「しょっぱすぎる」「観光客が食べるもの」という声は、富山県民の中にも少なくない。
もともと白飯のおかずとして設計された味だ。ラーメン単体で食べれば、塩辛いのは当然とも言える。本来の食べ方は、白飯と一緒にかき込むスタイルだ。
西町大喜では「麺とチャーシューとメンマを底から掘り起こすように混ぜてから食べる」のが作法だという。レンゲは使わない。丼に口をつけて、直接すする。上品な食べ方ではない。でもあのラーメンは、もともと上品さのために作られたわけじゃない。
🍜 西町大喜で白飯を頼んだとき、「あ、これ、おかずだ」と腑に落ちた瞬間があった。塩辛いスープで白飯をかき込む。1947年の労働者と同じことをしている。そう思ったら、妙にうまかった。
富山ブラックの歴史を知ると、「なぜあんなに黒いのか」という疑問は「なぜあんなに黒くなければならなかったのか」に変わる。答えは、焼け野原を復興させた人たちの汗にある。銀座スイスのカツカレーも、戦後の東京で千葉茂が「カレーの上にカツをのせてくれ」と頼んだことから始まった。あの時代の食は、誰かの切実な「食べたい」から生まれている。
同じことは、ご当地ラーメンの系譜にも言える。札幌の純すみ系——すみれと純連から広がった濃厚な味噌の一族も、たどれば一人の女性が中の島で立てた湯気にたどり着く。一杯の背景には、たいてい人がいる。
次に富山ブラックを見かけたら——ラーメン屋でもカップ麺でもいい——できれば白飯と一緒に食べてみてほしい。
あの黒さが、少しだけ違う味に変わる。