平戸島と九州本土のあいだには、平戸瀬戸という細い水路が通っている。南北およそ3.5キロ、いちばん狭いところで幅500メートルほど。いちばん深いところで水深40メートル。そこを、潮が最大6.5ノットで抜けていく。時速に直せば12キロ前後、自転車が本気で漕いだくらいの速さの水が、島と本土のあいだをまっすぐ通り抜けている。
地図で見ると、ただの海峡だ。渡ってしまえば数分で終わる。だが、この水路がこれから書く一皿の理由の半分を握っている。
その瀬戸をまたぐのが平戸大橋で、渡った先が平戸市街になる。これから取り上げる「海の見えるごはん屋」は、そこからもう少しだけ北、平戸市岩の上町にある。名前がそのまま説明になっている店だ。
正直に書いておくと、筆者はしばらく前まで「アジフライを食べに長崎まで行く」という発想を、少し大げさだと思っていた。アジフライである。定食屋の、あのアジフライだ。名物というより、日常の側にいる料理という認識が抜けなかった。その認識が揺らいだのは、この店と、店が向いている海のことを調べはじめてからだった。
木彫りの看板と、藍の暖簾。「海の見えるごはん屋」の扉
この店は、まず看板が目を引く。縦格子の木壁に、板を一枚。そこに店名を彫り込んである。印刷でも、シートを貼ったものでもない。彫った跡がそのまま残っていて、光の当たり方で表情が変わる。
その右手が入口で、藍の暖簾が下がっている。白く抜かれているのは、丸で囲った3文字だけだ。
魚。飯。菜。
それ以外に説明がない。何がうまいとも、何が名物とも書いていない。魚があって、飯があって、菜がある。定食屋という業態を、これ以上ないところまで削ると、たしかにこの3文字になる。看板に彫るほうも、暖簾に抜くほうも、余計なことを言わないと決めているように見える。
店の看板メニューは、公式に出ている情報でだいたい輪郭がつかめる。平戸海鮮丼が1,600円(税込)。「平戸地魚」刺身定食が1,700円(税込)。「平戸の塩」の焼き魚定食と煮魚定食が各1,400円(税込)。米も魚も肉も野菜も平戸のものにこだわっていて、飯は羽釜で炊いた平戸米だという。営業は11時から15時まで、ラストオーダーは14時30分。定休日は不定休。昼だけの店だ。
入口の脇には、赤い枠のイーゼルに黒板が立てかけてある。手書きで、海鮮丼と刺身定食。扉の横には営業時間。11時から15時まで。書いてあるのは、それだけだ。
平戸海鮮丼と、アジフライ
看板の一杯である平戸海鮮丼は、白身が主役の丼だ。血合いの赤いラインが走った薄造りが何枚も重なり、そこにヅケにした赤身、イカ、玉子焼きが差し込まれる。大葉とわかめ、わさび。膳には、きゅうりの浅漬けと海藻の小鉢、醤油差し、油揚げとオクラの味噌汁が並ぶ。派手なネタを一つ立てて盛り上げるのではなく、地の魚を薄く引いて敷き詰めていく組み方だ。魚の種類より、重ねた枚数のほうが先に目に入ってくる。
海鮮丼という料理は、書くのが難しい。ネタを並べれば説明にはなるが、それは献立表であって、食べた記録ではない。丼の上でネタが重なったときにだけ立ち上がる色と厚みがあって、そこは実際に一杯と向き合わないと言葉にならない。ちなみに膳に添えられた箸袋にも、暖簾と同じ「魚」「飯」「菜」の3文字が入っている。
そして、アジフライ
アジフライは、黒い角皿の半分を一枚で占める。衣は粗めのパン粉で、揚がった表面に大きな凹凸が立っている。細かいパン粉で薄く均一に包むのではなく、粒を残したまま短時間で上げる方向だ。タルタルは一枚の上に直接のせられ、レモンが一切れ。残り半分は、千切りキャベツとレタスに黄色いドレッシングがかかっている。
この店は海鮮丼と刺身定食が看板で、アジフライはその隣にいる。だが平戸でアジフライを頼むことには、この店の献立を離れたところに理由がある。以下に書く「なぜ平戸のアジなのか」は、皿ではなく海の側の話だ。
一枚のアジフライの後ろに、海と街がある
ここから少し、皿を離れる。この一枚がどこから来たのかを、海の側から書いておきたい。
「アジフライの聖地」を名乗っているのは、平戸ではなく松浦市だ
先に、はっきりさせておかなければならないことがある。
「アジフライの聖地」という言葉は、平戸市のものではない。宣言したのは、隣の松浦市だ。2019年4月27日、松浦市は「アジフライの聖地」を宣言し、同じ日に「松浦アジフライ憲章」を定めた。憲章には、松浦周辺で獲れたアジを使うこと、生か一度しか凍らせていないものを使うこと、そして松浦のアジフライを心から愛していること、といった条件が並ぶ。市はその後も「まつうらアジフライマップ」を出し続け、2024年2月には「アジフライパーフェクトガイドブック」という形にまとめている。料理名で聖地を名乗った自治体は、全国的にも珍しい。この経緯はアジフライが「映えメシ」になった理由のほうで詳しく書いた。
つまり平戸は、聖地を名乗っていない。名乗っているのは隣町である。
ではなぜ、平戸でアジフライを食べる話になるのか。地図を開くと、見当がつく。松浦市と平戸市は北松浦半島で隣り合っていて、同じ海を見ている。聖地宣言は行政の境界線で区切られるが、アジが泳いでいる海に境界線はない。松浦が旗を立てた海は、平戸が漁をしている海でもある。
潮が、身を締める。平戸瀬戸と対馬海流
アジの味を決めるのは、まず海のほうだ。
この一帯には、対馬海流が流れ込んでいる。黒潮と東シナ海の沿岸水が混ざった暖流が、九州の西から対馬海峡を抜けて日本海へ向かう。その通り道が、平戸の沖にあたる。回遊する魚は、この流れに乗って移動してくる。
そこに、地形が効いてくる。平戸瀬戸のように幅が狭くて浅い水路では、同じ量の水が通ろうとするぶん流れが速くなる。冒頭に書いた最大6.5ノットという数字は、そういう理屈で出てくる。速い流れのなかで暮らす魚は、泳ぐこと自体が運動になる。身が締まって味が濃くなると言われるのは、このためだ。玄界灘の魚がうまいとされる理由も、だいたい同じ説明になる。
ざっくり言えば、平戸のアジは坂道でトレーニングしているようなものだ。平地を流している魚とは、身のつき方が違ってくる。
瀬付きアジと、回遊アジ
もうひとつ、専門用語をひとつだけ噛み砕いておきたい。「瀬付き」と「回遊」の違いである。
アジには、海流に乗って広く回遊し続けるタイプと、途中で「瀬」——海底の岩場や天然の礁——に居着いてしまうタイプがいる。前者を沖アジ、後者を瀬付きアジと呼ぶ。同じマアジでも、生き方が違う。
瀬のまわりは、潮がぶつかることでプランクトンが集まりやすい。餌が豊富だから、そこに居着いた個体はよく食べる。結果として脂が乗り、身が厚くなる。見た目にも差が出て、瀬付きのものは体色が黄色みを帯びる。色が濃いほど脂がある、という見方をする人もいる。
脂が乗った厚い身は、フライという料理と相性がいい。衣で包んで短時間で揚げれば、中の水分と脂が閉じ込められる。アジフライがふっくら仕上がるかどうかは、揚げ方の前に、そもそもどんなアジを持ってきたかで半分決まっている。
街ぐるみで、一枚のフライを掲げるということ
数字の話もしておく。農林水産省の海面漁業生産統計調査によると、令和5年(2023年)のあじ類漁獲量は長崎県が全国1位で、46,005トン。全国シェアの41.0パーセントを占める。国内で獲れるアジのおよそ4割が、長崎の海から上がっている計算になる。
その長崎のなかで、平戸市はまき網漁業の島を抱えている。平戸島の北西に浮かぶ生月島の、舘浦漁港がそれだ。舘浦漁業協同組合は生月町舘浦にあり、まき網で獲れたアジ、アゴ(トビウオ)、イワシ、タイなどを、鮮魚としても、蒲鉾をはじめとする水産加工品としても扱っている。
この島には、もっと古い層もある。江戸時代、生月島を拠点にした益冨組は、網を使った捕鯨で国内最大級の鯨組になった。鯨が獲れなくなったあと、島の漁は巾着網へ、そしてまき網へと形を変えていく。生月が今もまき網の島であることは、偶然そうなったわけではない。網で群れを囲むという技術が、何百年も更新され続けてきた結果だ。
平戸市も、アジそのものから手を引いているわけではない。ふるさと納税の返礼品には、地元の水産会社が仕上げたアジフライが並んでいる。冷凍のまま揚げられるものが中心で、平戸のアジを平戸で加工し、そのまま全国の家庭の台所へ送る形になっている。
ここで、松浦の話に戻りたい。松浦市が2019年にやったのは、「うちの海の魚はうまい」と言うことではなかった。うまい魚は、どの港にもある。松浦が選んだのは、アジフライという料理名を一つだけ掲げることだった。魚種でも、港でも、漁法でもなく、揚げた一枚である。
これは、かなり思い切った絞り方だと思う。水揚げ量が日本一だと言われても、来訪者は動かない。統計は、旅の理由にならないからだ。だが「アジフライを食べに行く」なら、目的として成立する。街ぐるみで一枚のフライを掲げるというのは、自慢を捨てて、注文できる形に変換する作業だった。
そして平戸は、その旗を立てていない。立てていないまま、同じ海のアジを揚げている。名乗りがあるかどうかと、うまいかどうかは、別の話だ。
一枚のアジフライの後ろには、対馬海流があり、6.5ノットの瀬戸があり、瀬に居着いた個体の脂があり、江戸期から更新され続けた網の技術があり、料理名で旗を立てた隣町がある。皿の上に乗っているのは、そのすべての先端だ。
魚そのものの扱い方に関心が向いた人には、「究極の血抜き」を知ったら、もう普通の刺身には戻れないのほうも読んでほしい。九州の店を訪ねた記録としては、宮崎の山奥で、明治から続くうなぎに出会った話が近い。松浦という地名にもう少し寄り道したければ、佐賀・伊万里の松浦一酒造の話もある。
アジフライを食べに、長崎まで行くということ
アジフライを食べに長崎まで行くのは大げさだ、と思っていたころの自分に、いま言えることがある。あの認識には、料理の側しか入っていなかった。海の条件も、網の歴史も、街が旗を立てるという判断も、何ひとつ勘定に入れていなかった。
定食屋のアジフライは、たしかに日常の側にいる。ただ、その日常がどこから運ばれてきたのかを一度でも辿ると、同じ一枚が少し違って見えるようになる。次に近所の定食屋でアジフライを頼むとき、たぶん筆者は、産地の欄を一度は見るのだと思う。
店舗情報
- 店名
- 海の見えるごはん屋
- 住所
- 〒859-5121 長崎県平戸市岩の上町227
- TEL
- 0950-22-7373
- 営業時間
- 11:00〜15:00(L.O. 14:30)
- 定休日
- 不定休
- 地図
- Googleマップで見る
- メニュー
- 平戸海鮮丼 1,600円(税込)/「平戸地魚」刺身定食 1,700円(税込)/「平戸の塩」の焼き魚定食 1,400円(税込)/煮魚定食 1,400円(税込)/漬け焼き魚定食 1,400円(税込)/「平戸牛メンチカツ」のミックスフライ定食 1,400円(税込)ほか。飯は羽釜炊きの平戸米
- 備考
- 営業時間・定休日・メニュー・価格は変更の場合があります。来店前に店の公式情報をご確認ください
「アジフライの聖地」宣言・松浦アジフライ憲章・アジフライマップ:松浦市公式サイト。
あじ類漁獲量:農林水産省「海面漁業生産統計調査」(令和5年)。
平戸瀬戸の規模と潮流、対馬海流、瀬付きアジと回遊アジの違い、舘浦漁業協同組合、益冨組の捕鯨に関する記述は、各公的機関・漁協・自治体の公開情報に基づく。